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山田寺の仏頭(興福寺国宝館)を見て考えたこと

いつのころからか、奈良の仏像の前に立つと、これまでに自分が出会ってきた人、これまでに自分が訪れてきた場所、そして、これまでに自分が経てきた人生、そういったものを思い出すようになった。

多分それは、奈良の仏像を最初に見た時から歳を重ねたからであろう。子供の頃、祖母の手に引かれてお寺を巡った。そして、多くの仏像と出会った。そして今、改めて仏様に今向き合う。最初に会った時から今までの間、私が歩んできた人生に意味があったのだろうか。何ら意味などないのではないか。まだ分からない。しかし、最初に仏像と出会ってから今までの間、本当にいろんな人に会ってきた。いろんな場所を訪ねてきた。いろんなことを経験してきた。この間、幼い時に見た仏様は、私と共に、ずっと一緒にいてくれたのだ。

「白鳳の貴公子」山田寺の「仏頭」(丈六薬師仏)

そのように思えてならない仏様の一つに、山田寺の仏頭がある。今では興福寺国宝館に「展示」されている丈六薬師仏だ。ときどき、私はこの仏頭に会いたくなり、そのたびに興福寺国宝館を訪ねる。

「白鳳の貴公子」といわれるように、真正面から見ると、その顔は全く迷いがなく屹立している。横から見ると、慈悲深い表情が現れる。

制作者は、この仏像を創り出す時、一切の迷いなく、一気に作り上げたと思う。仏という存在を、この前に立つ者すべてに伝えきりたい。こうした心が、1300年以上経った今も強烈に伝わってくる。仏を製造している時、仏師もまた仏になっていたはずだ。

苦難の歴史が刻まれている「仏頭」

仏頭の首から下は無残に焼け溶けている。もともとは東金堂のご本尊だったが、1411年に火事にあったためである。体は溶け、左側の耳も欠落し、落下の衝撃で後頭部が破損している。しかし、顔はきれいに残った。

もっとも、最初から東金堂に安置されていたのではなかった。初代の東金堂は1017年に焼失し、再建後も平重衡の焼き討ちにあった(1180年12月28日)。再び建て直された東金堂は、その本尊を山田寺(現在、桜井市)から移されてきた。それが、今私が見る仏頭、すなわち丈六薬師仏だ。しかし、山田寺から「移されてきた」というのは正しくない。僧兵が強奪してきたからだ。

九条兼実は、藤原家の血を引くため、氏寺の興福寺が消滅したことを悲しんだが、それでも僧兵たちが山田寺から仏像を強奪してきたことには甚だ困ったらしい。それでも、実際に興福寺東金堂に足を運び、この仏像を見ると、その美しさに魅了されてしまっている(九条兼実の日記「玉葉」)。

山田寺の悲劇

そこで山田寺である。興福寺の僧兵に盗まれるほど立派な丈六薬師仏を抱いていた山田寺も、今では全く見る影がない。

私事になるが、子供の頃、いつも叔父のバイクに載せてもらって飛鳥と桜井を結ぶ「山田道」を走っていた。ある時、道脇に「山田寺跡」の案内を見つけた私は「行きたい」とせがんだが、叔父は「建物もなにもない」と取り合ってくれなかった。たしかに、山田寺跡を訪ねても、かろうじて伽藍配置を示す土台が残るのみである。


今では「史蹟 山田寺址」の石碑と伽藍配置が分かる盛り土のみ。これがまたいいんだけど。

山田寺の創建は、7世紀に生きた蘇我倉山田石川麻呂による。彼は、大化の改新では入鹿を暗殺する側に立った。しかし後に謀反の罪を着せられ、ここ山田寺で自害した。石川麻呂の死後も山田寺の建築は進められ、その威容は、平安時代にこの寺を訪れた藤原道長を非常に感動させている。

しかし今、この伽藍跡の芝生を歩くと、バッタの大群に、あるいはトンボの大群に襲われる。「マムシに注意」との注意書きもあった。かつての栄光は想像するしかない。

山田寺跡の敷地に小さな観音堂がある。その境内に、石川麻呂の子孫(山田重貞)が刻んだ「雪冤(せつえん)の碑」がある。ここには「先祖は無罪だ」と刻んでいる。山田重貞氏については全く分からない。詳しい人がいたらぜひ教えて頂きたい。


雪冤(せつえん)の碑

仏頭の再発見と黒田夫妻

さて、山田寺から移された丈六薬師仏が収まる東金堂が1411年の火事にあったことは先述した。その4年後の1415年、東金堂は再建されたが、この時、火災によって仏頭となってしまった丈六薬師仏に代わり、新たに薬師如来がつくられた。今の私たちが東金堂で目にするご本尊である。そして仏頭は、新たな本尊の台座の中に安置され、そのまま忘れられてしまった。

再び世間の知るところとなったのは、日中戦争が勃発した1937年10月末であった。この時、東金堂は解体修復工事を受けていた。奈良県文化財の技官・黒田曻義(のりよし)は、この工事に携わっていた。

2013年、東京芸術大学大学美術館で「国宝 興福寺仏頭展」が開催された時、黒田の妻・黒田康子さんが素晴らしい文章で『日経新聞』(2013年10月14日)に夫のことを回想している。曻義さんは「35歳までに博士号を取る。それまで結婚はお預け」と言っていたが、1941年、28歳の時に康子さんと結婚した。そして、自らが発見した仏頭の写真を前に、「お前は、(この)仏頭にそっくりだ」と言っていたという。仏頭を見つけたのは24歳の時。心から興奮した様子が『日経』から味わえる。

しかし黒田が30歳となった1944年、召集されてフィリピンに派遣され、1945年2月26日、ルソン島マニラ市の戦闘で部隊長と共に斬り込み玉砕した。すでに「大和の古塔」「春日大社建築史論」などを書いていた黒田は、戦争がなければ、まだまだ奈良の本を積み重ねていたであろう。

康子さんは、戦死の報告を受けた時のことを、「涙1滴出さなかった。涙を出すとすれば、身体じゅうの1滴も余さず涙として足るものではない」と振り返っている(『朝日新聞』2015年11月7日)。そして、次のように語っている。

「仏頭は1300年間、有為転変を見てきた。様々な顔と向き合ってきたに違いない。荒々しい僧兵ども。当惑から称賛へと変心する貴族。手を合わせる人々――。そんな中に、夫・昇義の驚きに満ちた顔もあったはずだ。」
(日経)。



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