
日本最古の狭山池は、今も人々の生活を支えている!
1400年間、ずっと現役の狭山池
大阪の狭山池に行ってきた。
知る人ぞ知る日本最古のため池。
最初につくられたのは飛鳥時代の616年頃だという。
すごい、まだ飛鳥に都があった頃。
そして狭山池は、今の人々も使っている。
狭山池をメンテナンスしてきた人たち
現代に至る1400年の間、いつも修復工事が施されてきた。
ではだれが工事を指揮したのか。奈良時代には行基、鎌倉時代には重源。
行基は奈良東大寺の大仏製作を導いたお坊さんであり、重源は平重衡の南都焼討によって焼失した東大寺の大仏を再建したお坊さん。
そして江戸時代初期には片桐且元も修復工事を指揮している。豊臣の裏切り者だとか色々言われているが、狭山池でその名を後世に残した。
今も狭山池周辺の人たちは、彼らの仕事のお陰で豊かな生活を送れているのだ。

ため池への想い
私事だが、ため池には非常に強い思い入れがある。
私の故郷は神戸市西部の農村で、この辺りから播磨平野にかけて、ため池が無数にある(ぜひ google map で見てください)。とにかく多い。昔から水に困る地域だったので、疎水やため池作りの苦労が代々伝わっている。大変温厚な祖父も水の無駄使いには非常に厳しかった。今も親戚の農家や農業をする友人たちは「ため池管理組合」の寄合に出たり、「〇〇疎水」の掃除に参加したりしている。
狭山池博物館に行った。
そして狭山池博物館。安藤忠雄の設計らしく、実に不合理かつ非機能的な建物だ。外に出るのにわざわざ喫茶店を通らなければならなかったり、玄関に辿り着くには3階から1階に降り、そこから2階までの階段を登ったり・・しかし、安藤忠雄に文句を言っても、「階段を登ったらええやろ!甘えるな」と言われるだろうな。

公共事業は仏の道―重源狭山池改修碑
ここの展示は見ものだった。中でも一つの石碑に感銘を受けた。それは、最近発見された「重源狭山池改修碑」だ。これにより、重源の改修工事は1202年だと分かったらしい。源頼家が鎌倉幕府の第2代将軍に就任した年だ。
この石碑に刻まれた文章は、概ね次の通りだ。「その昔、行基菩薩が64歳の時に堤を築いたが、年月を経て壊れた。そこで、この池の恩恵を受けていた摂津・河内・和泉3か国、約50郷の人々の要請によって、重源が修復に乗り出した。その時は82歳・・・」
82歳というのがすごいが、もっと感銘を受けたのは次の文章。
‥道俗男女沙弥少児乞匃非人等、自手引石築堤者也、是不名利偏為饒益也、願以此結縁□□一佛長平等利益法界衆生‥
つまり、狭山池改修工事には、僧侶、俗人男女、沙弥(正式の僧侶となる前の人)、子供、乞食、非人などが、自らの手で石を引き、堤を築いた。これは名誉や利益のためではなく、ただ「饒益」(にょうやく。仏教用語で、慈悲の心で人々に利益を与えること)のためである。(改修に参加した人たちが)仏と縁を結び、仏がこの世の一切の生物を等しく幸せにされることを願います。
公共事業とは仏の道だった・・・
当然のことだが、公共事業とは、人々が豊かに、幸せになるためにある。あるいは、人々に降り注ぐ危険が少しでも軽減するためにある。だからこそ、多くの人が自ら進んで工事に参加した。自分のため、他人のため、そして後世の人たちのためと思い、熱心に働いた。働き手は、性別や身分など関係なかった。土を運ぶのに貴賤の差別はないし、幸せになりたい気持ちに男女の区別もない。狭山池の工事に向き合う人たちは、世俗を離れて一切平等になる。したがって仏に通じるのだ。
今、「公共事業は仏の道」といっても、シラケるだけだ。公共事業と聞けば、「どうせ政治家・役人・業者達が裏で結託して・・」「また税金の無駄遣い」といった非難が先に出てくる。公共事業を取りやめると喝采すら受けたときもある。いつの間にか私たちは、本来の「公共事業」の意味を忘れてしまった。陳腐な表現だが、歴史から学ぶことは多いし、歴史は現代の鏡だ。