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あなたは何歳まで働きますか?人生100年時代の理想の働き方とは

ジャーナリスト 田原総一朗さんの新刊『90歳まで働く――超長生き時代の理想の働き方とは?』が9月18日(金)に発売されます。発売に先立って、本書の「はじめに」を公開します。

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はじめに

60歳はまだ人生の折り返し地点

 いままでの日本人の人生設計には、典型的なパターンがありました。大雑把に言えば、20年学び、40年働き、15年を年金で暮らすというものです。住宅ローンなども、こうした人生設計に沿って組まれることが多かった。
 80歳くらいで生涯を終える時代なら、この設計図で多くの日本人は幸せに生きることもできていました。
 しかし、80歳を過ぎても人生はまだまだ続く時代になり、「人生100年」という言葉が盛んに使われるようになりました。さらにいえば、100歳がゴールというわけではありません。

 数年前、私は京都大学・iPS細胞研究所の山中伸弥教授にインタビューをしました。そのときに、あと数十年もすれば、がんをはじめとするあらゆる病気が治る時代が来るという話を聞きました。
 人生100年どころか、人間の寿命は120歳くらいまで延びようとしています。そうなれば、40年働き終えた60歳は、まだ人生の折り返し点です。定年を迎えても、人生はまだ半分も残っている。
 人生の後半を幸せに生きていきたければ、日本人は人生設計そのものをドラスティックに書き換えるしかなくなっているのです。

 20年学んだ後、「40年働く」という生き方は、すでに時代に合わなくなっています。
 60代の日本人は、まだまだ働ける人たちばかりです。現役サラリーマンの読者であれば、60歳での引退が「早すぎる」ことは、すでに自分事として感じていることでしょう。 

 働く環境も大きく様変わりしてきています。AI(人工知能)の研究が進み、人間の仕事をコンピュータが代替する社会は、もはや未来の話ではなくなりました。
 あと10年もすれば、AGI(汎用人工知能)の実用化が始まります。自ら学習して成長するAGIが社会実装されれば、多くの職場で人間は不要になります。

 オックスフォード大学と野村総研の共同研究グループは、日本の労働人口の約49%が就いている職業において、仕事は機械に代替が可能だと発表しています。
 つまり、60歳以降も元気で働ける人が増える一方で、働く場はどんどんなくなっていこうとしているわけです。

 もっとも、かつてイギリス産業革命が起きたときのように、従来の仕事がなくなる代わりに、新しい仕事が次々に生まれるでしょう。しかし、それはそれで人間が見つけなくてはなりません。

 そんな時代を幸せに生きていくためには、できるだけ若いうちに従来の「仕事」という概念や認識そのものを大きく変える必要があるでしょう。私が本書で伝えたい「人生設計を書き換えよう」という提言は、〝おいそれとは死ねなくなる将来に対する準備〟と言い換えてもいいのです。

日本人には”V”が足りない

 たとえば、40年働く段階のスタートを考えてみてください。
 自分の将来を熟考した上で、「人生を懸けてやりたい」という純粋な動機で仕事を選んでいたでしょうか。極論を承知で述べれば、日本人の就職は仕事を選ぶというより、会社を選んでいるのが実態です。なぜなら、そういう仕組みを日本の社会が時間をかけてつくってきたからです。

 戦後、アメリカの経営学者であるジェイムズ・アベグレンは、日本的経営の〝三種の神器〟として「終身雇用」「年功序列」「企業内労働組合」を挙げました。
 終身雇用と年功序列が当たり前だった時代は、「安定」こそが会社に就職する大きなメリットでした。会社に属していることは、個人の信用にもなりました。だから金融機関でローンも組めたのです。
 その代わり、会社員は辞令一つで部署が異動になったり、転勤させられたりすることも当たり前に行われてきました。ある意味で、自分の人生設計を会社に委ねることが会社員の無難な生き方になり、自らビジョンなど持たなくても安定した生活は送れたわけです。

 ところが、終身雇用は崩壊しつつあり、そのうち年功序列もなくなります。その上、多くの日本人が会社を退いてからも長く生きる時代になった。会社を拠り所にした人生設計は、もはや幸せに生きることを保証するものではなくなっているのです。

 いま必要なのは、自分自身でビジョンを描くことです。
 もっと具体的に言えば、60代以降も続けられる〝何か〟を、仕事とリンクさせて生きていくという発想を持たなければ、幸せな生涯を送るのはむずかしくなるということです。

会社を辞めて1年後、突然の変異

 私は幸いにも、自分でビジョンを描くことができました。目指すべき未来が見えていれば、次々に目標が生まれ、仕事がどんどん楽しくなる。おかげで86歳になったいまも、現役で毎日充実した時間を過ごすことができています。

 では、どうやって私は自分のビジョンを描くに至ったのか? 
 私にもサラリーマン経験があります。40歳のときはテレビ東京の社員でした。当時は東京12チャンネルという局名で、在京キー局に比べたら三流扱いのローカル局。番組制作費もケタ違いに少なかったし、まともな番組をつくっていたら視聴者から相手にされませんでした。
 だから私は日本テレビやTBS、NHKにはできない番組、いわば危険な番組ばかりつくってきました。
 そのテレビ東京を私は42歳のときに辞めました。これがフリーランスのジャーナリストとしてのスタートです。

 退職した経緯については後述しますが、サラリーマン人生というレールから外れた私は、否応なしに自分の生き方を考え直さざるを得なくなりました。テレビ局の社員という立場ではなく、「田原総一朗」という個人として仕事を請け負い、自らつくったレールの上を生きていかなければならなくなったわけです。

 会社を辞めて迎えた月末に、「給料の振り込みがない」という寂しさを初めて味わったときのことは、いまでもよく覚えています。
 給料どころか、これからは年に2回のボーナスもない。フリーになって数年は、ボーナス時期になると妻が不機嫌になったものでした。

 フリーになった直後、私の収入は雑誌に書く連載記事の原稿料がメインでした。取材で知り得た情報を元に一本の作品を仕上げるという作業―しかも他者とは異なる視点でつくる姿勢は、テレビ局でドキュメンタリー番組をつくっていた頃からの私の仕事のスタイルでもあります。
 その意味では、サラリーマン時代のキャリアがフリーになった自分の大きな武器にもなっていました。

 ところが、フリーになって1年ほど経ったとき、突然の異変に襲われたのです。
 ある朝、いつものように新聞を読もうとしたら、記事も見出しも何が書いてあるのか全然わからない。たとえば「行政手続き」と書かれた言葉は、「行」や「政」という1字1字は読めるのに、「行政手続き」という言葉の意味が理解できなかったのです。
 本棚を見ても、本の背表紙に書かれたタイトルの意味がまったく頭に入ってこない。外に出てみると、商店街に建ち並ぶ店の看板すら読めなかった……。
 頭を思いっきり殴られたようなショックでした。語句の意味がわからない状態では、1行も原稿を書くことなどできない。自分の将来が閉ざされたような絶望感に襲われ、私は真っ青になりました。

 親しい友人からは、「すぐに医者に診てもらえ」と言われましたが、私は病院に行けませんでした。「田原は病気で文章が読めなくなった」と編集者に伝われば、2度と原稿の注文が来なくなるという恐怖があったからです。2か月ぐらいは口述で、アシスタントの人に書いてもらっていました。
 結局、病院には行かなかったので原因はいまだに不明ですが、おそらく疲労とストレスによるものではなかったかと思います。

 フリーになれば、継続して仕事があるという保証はない。当時の私は、仕事の依頼があれば二つ返事で引き受け、昼は取材、夜から朝まで執筆という毎日を送っていました。そんな、ビジョンがなく、ワーク・ハード一辺倒の生き方に、心身が悲鳴を上げたのかもしれません。

私なりのビジョンが見つかった

 フリーになってから4年後の1981年、私はテレビ界に復帰しました。47歳のときです。きっかけは、テレビ朝日の『トゥナイト』という番組から声がかかったこと。

 『トゥナイト』は月曜から木曜日の夜半に放送されていた情報番組で、お色気から硬派な問題まで、幅広いテーマを取り上げていました。バイオテクノロジーなどの記事を執筆していた私は、最初はサイエンス分野のコメンテーターとして出演を依頼されました。
 が、番組スタッフと打ち合わせをするうちに、「どうやら田原は科学以外の分野にもいろいろ首を突っ込んでいるらしい」と思われ、番組の企画ブレーンとして参画を要請されるようになった。

 夜遅い時間帯ということもあって、『トゥナイト』ではゴールデンタイムの番組ではやれないような問題にも切り込むことができました。テレビ東京のときの危険な番組づくりの経験が役に立ったのです。
 生放送だから、ゲストに招いた当事者の発言から予想もしていなかった展開になることもあります。それが、おもしろかった。

 トゥナイトでの経験は、私にとって未来へと続く人生のレールを敷く大きな力になりました。1986年の秋、テレビ朝日の編成局長だった小田久栄門さんから、「会って話したい」という電話がかかってきました。それは、いままでにない深夜番組をつくるためにアイデアが欲しいという相談でした。
 フジテレビがオールナイトフジで話題になっていたので、テレビ朝日でも深夜番組をつくろうと考えたのです。

 私は『トゥナイト』で手応えを得たやり方を、さらに突き詰めた番組ができるのではないかと直感的に思いました。
 当時のワイドショーでは、重いテーマは視聴率が取れず、1つのテーマで視聴者を引きつけておけるのはせいぜい5分が限界と言われていました。そこで私は、まったく逆の提案をした。深夜1時から6時までの5時間で、1本のテーマを徹底的に討論するというアイデアです。
 こんな常識外れな企画は、失敗の危険が大きすぎて局内からはなかなか出て来なかったでしょう。しかし、フリーランスであれば、会社の論理に縛られることなく、「自分にできること」を規準に、「自分がやりたいこと」を主張できる。

 私が小田さんに伝えたのは、ある問題に人生をかけてきた人たちが集まり、本音で意見をぶつけ合えば、番組そのものがこれまで報道されてこなかった"すさまじい真実”の発信源になるという考えでした。私はプロレスから借りて、”無制限一本勝負“と唱えました。

 こうして1987年4月にスタートしたのが『朝まで生テレビ!』です。
 『朝生』は討論番組の新しいスタイルとなって、1989年4月に始まった『サンデープロジェクト』にも波及しました。
 『朝生』や『サンプロ』がつくれたのは、もちろん私だけの力ではありません。現場では多くのスタッフが「おもしろい仕事」を形にしようと尽力してきました。

 番組における私の立場は、いわば表に出るディレクターです。討論の場で、当事者たちの本音に迫り、本音のぶつかり合いの中から真実をあぶり出し、それを多くの人々に伝える―というのが私の役割です。
 そして、その役割をいかにして果たすかという目標が、生涯現役のジャーナリストとして生きるための私のビジョンにもなったと思うのです。

90歳まで現役のジャーナリスト

 先日、高校時代の同級生の集まりがありました。古い友人たちと集まる機会は年に2、3度あります。
 80代にもなると、足腰が弱っていたり、持病があったりする者ばかりです。健康面では私も五十歩百歩かもしれない。

 しかし、話をしていると、自分が一番元気なのではないかと思えてくる。それは、私が”現役”であることが最大の理由だという気がします。
 86歳になっても、ありがたいことにいろいろなところから仕事の依頼が来ます。テレビ朝日のプロデューサーは、「田原さんは好きなことをやってください」と言ってくれる。自分がやりたいことを、仕事として続けていられるいまの自分の人生は、本当にラッキーだなと思います。

 気がつけば、取材をする政治家や実業家は、自分より年下の人たちばかりになりました。毎日4、5件の取材や打ち合わせでスケジュールが埋まります。ビジョンとともに、ワーク・ハードも維持できているのではないかと思います。

 「疲れませんか?」と心配してくれる人もいますが、人と会って話をするのは私の健康法みたいなもの。
 新型コロナウイルスの影響下で人と会う機会は減ってしまいましたが、オンラインでの取材を続けています。誰かと話をしていれば、自分が高齢であることすら感じなくなります。

 こうして仕事が続けられるのも、私が過去の蓄積だけで仕事をしているのではなく、日々リアルタイムで情報を収集しているからでしょう。
 ジャーナリズムの第一線に身を置く以上、キャリアの上に胡座をかくようになったら引退の潮時です。現役のジャーナリストの評価に年齢は関係ありません。

 ただ、話をする相手は、私を「人生の先輩」として見てくれるようで、インタビューをしている相手から、逆にこんな質問を受けることが増えました。
「元気の秘密は何ですか?」
うれしい質問です。「元気ですね」と言われれば、「まだまだやれる」という自信や意欲も湧いてくる。
 私は、少なくとも90歳まではこのまま現役のジャーナリストとして生きていくつもりでいます。毎日、世の中の動きを追っていれば、「なぜそうなったのか?」という興味は尽きることがありません。
 そして、「当事者の本音を知りたい」という好奇心が刺激され、「真実を伝える」というジャーナリスト魂にも火がつく。やりたいことが次から次に出てくるのです。だから頭も体も元気で働き続けていられるのでしょう。

 やりたいことがどんどん減っていく人生ではなく、いつまでもやりたいことに夢中になれる人生のほうが、楽しいに決まっています。そういう人生を歩んで来れたと、いまの私は実感しています。
 "秘密”といえるほど特別なことをやってきたつもりはありません。しかし、私の経験の中には人生100年時代の働き方の手がかりが潜んでいるかもしれない。
 いままで人には話したことがないことも含め、本書では自分の人生をあらためて振り返ってみます。

 私の生き方や考え方の一端が、これから人生設計を見直そうとする読者のみなさんにとって、ささやかな一助になることを願い、筆を進めていきたいと思います。

著者 田原総一朗(たはら・そういちろう)
1934年滋賀県に生まれる。1960年早稲田大学を卒業後、岩波映画製作所に入社。1964年東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局とともに入社。1977年フリーに転身。テレビ朝日系『朝まで生テレビ! 』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年戦後の放送ジャーナリスト一人を選ぶ城戸又一賞を受賞。著書に『伝説の経営者100人の世界一短い成功哲学』(白秋社)、『戦後日本政治の総括』(岩波書店)、『創価学会』(毎日新聞出版)、『塀の上を走れ 田原総一朗自伝』(講談社)などがある。


 

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