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文字を見つめすぎるとバラバラに解れて勝手に話し出す

坂東里美

 日本語は多様性に満ちている。文字だけをみても漢字、ひらがな、カタカナがあり、音や指し示すものは同じでも意味やニュアンスが変わってくる。せっかく日本語を母国語としている私としては、日本語で詩を書くということにはどのような可能性があるのか探求してみたいという思いがある。このグローバル社会で他の言語への翻訳不能というのは全く不利な話であるが仕方がない。

 漢字は象形・指示から発達した中国伝来の表意文字で、表音的にも用いられるが、象形―つまり絵としての形が変形され簡略化されすぎて、もはや元の形がわからないものも多い。それならば、その漢字を今の感覚で凝視して得た視覚情報から、その構造(形・音・意味の組合せ)をもっと小さいパーツに自由に分解し、新たな形・組合せを見つけ出して再構築するという実験をしてみた。

 「愛」という文字を穴が開くほど見つめてみる。
すると「愛」の文字の上の部分、一画目から四画目の「ノ」が天窓に、「ツ」が天窓を少し押し上げている形に見えてきた。そこから「爪」の視覚的連想を得た。その下の「ワ」の形でグッと押さえているのは抑えきれないドキドキする「心」。一番下の部分は「タ」が走って逃げる人の足にも見え、あるいは踏みとどまろうとする「又」も重なっている。

 「愛」といえば、学生の頃、心理学の教科書に赤ちゃんザルが電熱線に布を巻いた暖かい「代理母」にしがみつく写真が掲載されているのを衝撃を持って見た。この実験をしたのは、愛が人間に欠かせない重要なものだと「科学的」に実験で証明しようとした異端の天才心理学者ハリー・ハーロウだ。彼の著書のタイトル『愛のなりたち』を拝借した。漢字の「愛」のなりたちを新しく考えてみたのだ。

   あいのなりたち

   愛

       天窓を少し押し上げて
       ソッと覗いている
       この心臓の鼓動を誰にも
       覚られないうちに
       タタタと走って
       逃げるか
       あるいは
       又

 またある日、「窓」という文字を眺めていたら人の顔に見えて仕方なくなった。ウ冠「宀」が手塚治虫のベレー帽、その下の「八」が眉毛、「ム」が鼻.窓から顔を出しているマンガ家。「ム」とその下の「心」がそのムズムズする空想力でこちらに息を吹きかけてくる。「窓」と「空」は上の部分が共通している。全くのノンセンスだが、文字や言葉そのものがが生み出す不思議な空間や世界を楽しみたい。 

    窓
       
       ベレー帽のマンガ家の
       八の字眉が首を出している
       ムズムズする空想の種
       心音は発芽する
       空に向かって
       そう

 「視覚詩」(Visual Poetry)の日本の創始者のひとり新国誠一(彼の作品は具体詩/コンクリート・ポエトリイと呼ばれていた)に漢字や漢字のパーツにこだわった作品が多いのも漢字の形そのものの視覚的効果に着眼したからである。「視覚詩」になると言語の壁を越える。意味ではなく人間の感覚としての視覚に直接訴えるからだ。彼の代表作「雨」は、「雨」という漢字の内側のパーツが雨粒のようにスクエアに配置されている。まだコンピューターがない時代に写植文字で打たれたこの作品は外国でも評価が高い。ひと目見て「雨」と言う文字の持つ詩的世界が伝わってくるからだ。

新国誠一「雨」

 文字や言葉は、本来は詩を書くための部品(パーツ)である。その文字や言葉そのものを解体し、組み替え、自由な想像力を駆使する『視覚詩」と同じ発想ではあるが、図式ではなく、また別の新しい詩の領域に踏み入ることができたら嬉しい。

執筆者プロフィール

坂東 里美 (ばんどう さとみ) 

詩と視覚詩の創作と前衛詩の研究(西脇順三郎、北園克衛、藤富保男、左川ちか)。関西学院大学院日本文学研究科博士課程修了。日本現代詩人会、日本近代文学会会員。詩集『約束の半分』(あざみ書房)『タイフーン』(あざみ書房)『変装曲』(あざみ書房)『考える脚』(澪標)


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