想像の風景のなかの非常用つまようじ / An Emergency Toothpick in an Imaginary Landscape
アストリッド・アルベン著
山中章子訳
よそよそしくもどことなく居心地の良い一連のロックダウンのあいだ、芸術作品が我々の創造力の神殿に、実物の不在のなかで静かに身を潜めているとき、私は創作について語る芸術家に目を向けるようになった。エイミー・シルマン[i]はエッセイ「色について」で、表面について語り、画家たちがいつも表面について議論し、それを触り、撫で、「特別なスポンジとヘラで、または硬材か竹製の柄とヤギやミンクやマングースの毛を使った筆で隅々まで撫でる」様子を書いている。[1]
私はそんな風にノートのページを扱ったりしない。でも考えてみると、確かに私もじっと座って半分ほど埋まったページを見つめていることがある。余白にいたずらがきやシルクハット姿の象を描いたりする。それに、こだわりぬいて選んだ自分好みの紙があり、書く内容によってその種類を変える――詩には表面コーティングなしのオフホワイトの紙でないとダメだ。繊維質で絶妙な吸水性がありインクが繊維に心地よくなじんで、文字の境界線が滲みだしほかの文字と混じってしまうことも、自らの囲まれたスペースを、例えば「O」の穴や、もっと繊細な「e」や「a」、または「ℓ」や「ℏ」の輪を、洪水で水没させることもない。
こんな風にこだわるから「e」の小さな目が滲んでつぶれてしまうと、私の不安レベルは跳ね上がる。すべてはこうあるべきなのだが、当然ながら、詩を書くための準備であるはずの「こうあるべきもの」が詩の妨げになってしまうこともある。
エッセイや批評といった散文の場合、より滑らかな繊維の艶消しコート紙の方がよい。なぜかこの紙だと執筆のプロセスから職人気質が減り、もっと客観的で理知的な気分になる。「ほら!まじめに仕事してるんだから」という感じだ。大きな紙が一枚あれば十分、相互参照の矢印や注をつけたり、詩とは無関係のやることリストやその他の書き込みができるように。紙の種類で書く道具が決まる――2HBの鉛筆、ボールペン、それかいつも机に置いている万年筆。エイミー・シルマンの準備とキャンバス表面の手直しは、筆のストロークの方向や、キャンバスで光を反射する顔料の付着力、または絵の具の厚みを決定したりする。だが詩の場合、私がどのペンを使おうとどんな紙に書こうとほとんど関係ない。シルマンの職人的な準備は「色を置くための絶妙な土台」を生み出すし、一番いい筆はコリンスキーセーブルというもので「コリンスキーとは雪深いシベリアに生息するイタチの仲間」[2]だそうだ。しかし一方で、私にはペンの種類もインクの色も関係ない。結局のところ、それで言葉の意味が変わったり単語同士の関係性が変化したりすることはないし、印刷されてしまえば読者がどう読むかにも影響はない。
自分の好きにできる筆やヘラ、パレットナイフ、チャコールや絵の具で、つまり好きな道具や材料で作品を仕上げるアーティストがうらやましい――自分の持ち味を発揮する道具を使って、深さ、シルエット、空間、塊、色合い、質感などを生み出す――現実とは明らかに異なる他者的な何かを作るのだから。
おそらくこういうわけで私は、詩形に対する意識を読者と分かち合う詩人たちに惹かれるのだろう、誕生のプロセスを伝える作品を、考え抜かれた様々な要素や決断が伝わる、捨てたものの痕跡が隅や影にまだ残っているような作品を書く詩人に。建築家ルイス・カーンはある講義で(これも私のロックダウン図書の一つだ)、こう話している。「自然が作るあらゆるものの内に、それがどのように作られたのかを、自然は記録します。岩の内には岩の記録があります。人間の内には、その人がどのように作られたかの記録があります。」[3][ii] 詩において、このプロセスの記録は句跨りとなり、非/意図的な思考プロセスの分岐点や、複数の読解方向に分かれる交差点を示す標識として使われることがある。自己存在の完全性に対するこの無防備さ――私が詩形と内容の不可分性を扱う作品に引きつけられる要因はここにある。
詩を書いていると気が狂いそうになる。言葉そのものが詩の邪魔をすることも珍しくない。詩を書くことの大部分は、日常的に使われる言葉の知識をそぎ落とす作業だ。言葉は万人のもので万人により形づくられる。言葉はプロパガンダになる、例えば「りんご一個で医者いらず」「労働は自由への道」「アメリカを再び偉大に」。言葉は抵抗運動にもなる――「労働者よ、団結せよ!」「儲けより人を!」。それはもっとも複雑なレトリックを言語化し最も美しいイメージを作り上げる――「『希望』は翼をつけて」。モノを売ることもできる――「Just Do It」「ハインツのビーンズ」など[iii]。こういった既存のコミュニケーションコードや制約を解体すると同時に、文学史とその規範と、メタテクスト的言及の重みと言葉やフレーズが持つ意味の多元性を巧みにジャグリングするのだから、詩人にとっては試練の連続だ。
リズムと押韻を気にかけつつ、韻律、半韻、抑揚、口調、改行もある。言葉の使用領域を調整しなければならない。「でこぼこ」は低領域、「ゆるやかな起伏」は高領域。ほかにも意味、語源、音、そして作品全体の強弱と音楽性がある。それでも足りないとでもいうように、あらゆるページがキャンバスで、詩がミニチュアのスケッチかドローイングだとイメージしてみると、字体や大きさ、行のインデント、余白や行間の幅といった視覚的要素も気にかける必要が出てくる。これらすべてが、書いている間に、それ自体が独立した自律的な作品――つまり詩なんだという幻想をどうにか保とうとしている間に同時発生するのだ。
もしかしたら「じゃあ内容はどうなの、何について書くのかどうやって決めるの?」と聞かれるかもしれない。つい先日、ガーディアン紙で英国人俳優マーク・ライアンスの記事を読んだのだが彼はそこで、作家は「気候変動解決のために自然についてのラブストーリーを書くべきだ」とジャーナリストに語っていた。アーティストよ活動家たれという世間の叫びは理解できる。圧倒的な不平等感、憤り、消耗感、崩壊の崖っぷちでよろめく危機感に支配された時代に私たちは生きている。気持ちは張りつめ、常に警戒状態で生きている。現実はすっかり形を失ってしまった。実験的な詩人たちは浮世離れしたエリート主義者だと見做され、社会や地球を荒廃させる諸問題など気にしないと思われている。
変化が必要だ。芸術家は、この追放者、反逆者、探求者、独立思想家は軽やかに役割を変え、希望の使者や変化を求める活動家になれる。でもどうやって?書くのを止め、大胆にもポエトリーフェスティバルで沈黙を貫こうか――抗議の印として想像力を封印して?ボブ・ディランのようにプロテストソングでも書く?気候変動問題を解決するためにラブストーリーを語る?どんなにばかげて聞こえようとも、というか実際ばかげたことだが、明らかに政治的だと分類できる作品を書くべきだという詩人に対する昨今の社会政治的圧力は非常に大きい。太鼓を叩いて社会との関連性をアピールするドンチャン詩人だ。だがその図式を裏返したらどうだろう?芸術家が「政治芸術家」になることを奨励するのではなく、政治家がもっと芸術家のようになってはどうだろうか?ドンチャン政治家だ。
というわけで「内容はどうなのか」という質問の答えはこうなる。詩作の過程で、何についての作品なのかは気にしない。詩形は気にする。画家エドガー・ドガにこんなエピソードがある。彼はマラルメに「君の詩には参ったよ。私の頭はひらめきでいっぱいなんだが、どうも思い通りの言葉にできなくてね」と言った。それに対してマラルメはこう答えたそうだ――「なあドガくん、ひらめきでは詩は作れないよ、言葉で作るんだ。」[iv]
詩はひらめきではない。詩は散文でもない。詩はミニチュア版「〇〇について」ではない。詩に答えはない。詩は暗号ではない――詩は ほ・ん・と・う・に(ほんとに?)言いたいことのメタファーではない。何についての作品なのかと質問されたアルチュール・ランボーは「それは文字通り完全に、あらゆる点において、言葉通りの意味しかありません」[4]と答えた。詩は、ランボーが予言したように、詩そのものであり、それ以外の何でもない。
鍵穴から覗くように世界を覗くと、形が見える――都市をつなぐ列車、レジ袋、街灯、原子炉、救命ボート、人体の形、海、山脈。感情や音楽さえも形を成すが、常にゆらめき「○○について」に抵抗する。意味が持っている力は、すべてを一度に見られないという不可能性により無効化される。すべて――物体、抽象、感情――は様々な要因の複合体だ。私の詩はこういった詩形との格闘から立ち現れる。詩形との格闘を経ずに、「○○について」を正確に指し示すことなどできるわけがない。
詩人にとって詩形は、築き上げられ、内部崩壊し、重なり合い変化し続ける現実の絶え間ない再現、追いつき、そして予言だ。詩を書くときに固定されていることなど何もない。詩の世界のなかで、すべての要素は、他の要素との関係性をいつでも変えられる状態にある。文法や統語の用法によってヒエラルキーや区分といった概念を問い直す詩人たちは、エリート的でもなければ、超然として社会が直面する問題や困難に無関心なわけでもない。むしろ、そういった構造をどうしたら変えられるのかに挑むのだ。意味は築き上げられている。詩形は最も本質的な部分で政治的であり、世間一般に広く受け入れられている規範や構造や関係性にどうしたら挑むことができるのかを教えてくれる。詩形との格闘を通して、ようやく手の届きそうな可能性が姿を現す。それは「これが内容だ」と私たちが言えるもの。そのとき読者も「これが内容だ」と言えるし、読者の「これ」が示すのは詩の内にある多種多様な可能性の一つなのだ。
最後に、はじめの方で言及したことに戻ろう。創作の記録を留めている詩が好きだということについて。自然と同じように、詩には不完全性が内在している。不完全性には抵抗力がある。不完全性はシステム障害、またはバナナの皮で滑って転ぶこと。それはアイデンティティの誤認であり、自分たちを欠陥のある奇妙な生き物だと認めること。不完全性はユーモアと、複雑さと矛盾を招き入れ許容し、そこから変化の可能性が生まれる。「○○について」については忘れて詩形の実験をしよう、目の前の現実から離れたよそよそしいエリート主義者になるに代わりに・・・
愛をこめて
アストリッド
【原注】
[1] Faux Pas. Selected Writing and Drawings, p. 56, Amy Sillman, After 8 Books, 2020.
[2] Id.
[3] ‘White Light, Black Shadow’, Louis Kahn, 1968, reproduced in Louis I. Kahn, Conversations with Students, Architecture at Rice 26, Princeton. Architectural Press, 1998.
[4] qtd. Arthur Rimbaud - A Biography, Enid Starkie, 1962 287
【訳注】
[i] エイミー・シルマン (Amy Sillman, 1950-)はアメリカ人の画家。油絵のほかにもドローイング、マンガ、コラージュやスマホの動画まで幅広い方法で作品を制作している。
[ii] 香山 壽夫による翻訳を参考にした。ルイス・カーン著、香山 壽夫訳『ルイス・カーン――建築家の講義』丸善株式会社、2007年。p.12
[iii] 「りんご一個で医者いらず」(“An apple a day keeps the doctor away”) は英語のことわざ。19世紀にリンゴの消費促進のために生まれた。「労働は自由への道」(“Arbeit Macht Frei”)は、20世紀前半、ナチス政権がユダヤ人を収容する強制収容所のスローガン。強制収容所の門のアーチに使用したことで幅広く知られる語となった。元は19世紀後半のドイツ人作家ロレンツ・ディーフェンバッハがによる小説のタイトル。「アメリカを再び偉大に」(“Make America Great Again”)は2016年アメリカ大統領選挙でトランプ氏が使用したスローガン。「労働者よ団結せよ!」(“Workers, unite!”) は、マルクス/エンゲルス『共産主義宣言』(1848年)にあるスローガン “Workers of the world, unite!” をアレンジしたもの。「儲けより人を!」(“People not profits!”)信用組合のスローガン?「『希望』には翼がある」(“’Hope’ is the thing with feathers.”)はエミリー・ディキンソン(1830-1886)の詩の一節(フランクリン版314番)。「Just Do It」はスポーツ用品メーカー、ナイキのキャッチコピー。「ハインツのビーンズ」(“Beanz Meets Heinz”)1967年よりハインツのベイクドビーンズ缶に使用され、今も使われている。
[iv] 吉田健一による翻訳を参考にした。ポール・ヴァレリー著、吉田 健一訳『ドガに就いて――ドガ・ダンス・デッサン』筑摩書房、1977年。p.116
An Emergency Toothpick in an Imaginary Landscape
by Astrid Alben
During these alienating yet strangely comforting lockdowns, when artworks are quietly and unseen in our temples of creativity, in the absence of the real thing, I have turned to reading artists reflecting on their craft. In Amy Sillman’s essay ‘On Color’ the artist talks about surfaces and how painters will constantly discuss these, touch them, caress them, “go over them with special sponges and scrapers, with brushes made of the hair of goat or mink or mongoose, with handles of hardwood or bamboo.”[1]
This is not how I get to treat the pages of my notebooks, although come to think of it, I do sit and stare at half-filled pages; draw doodles and elephants in top hats in the margins. And I have my meticulously selected and preferred types of paper for different kinds of writing — for poetry the paper should be off-white and uncoated, fibrous and absorbent at just the right level, letting the ink sink comfortably into the fibres, without the circumference of the letters bleeding into others or flooding its own enclosed spaces, like the hole in the ‘o’ or the more vulnerable ‘e’ and ‘a’, or the loops of the ‘l’ or the ‘h’.
My superstition is such that the silting up of an e’s eyelet will cause my anxiety levels to spike. Everything has to be just so and of course the ‘everything having to be just so,’ the very thing that prepares the way for a poem, is also its blockage.
When it comes to prose, such as an essay or a review, my preference is for matt-coated paper, which has a smoother fibre. Somehow this makes the writing process feel less artisan and more detached and brainy, as if to say, “Look! I’m doing some serious work over here.” A larger sheet of paper will do, so there’s space for cross-referencing arrows, notes, non-related to-do lists and other marginalia. Paper type dictates writing-utensil, whether that is a 2HB pencil, biro or one of the fountain pens I keep on my desk. But unlike Amy Sillman’s prepping and re-working the surfaces of her canvas, which will determine the direction of a brush stroke or how the pigments cling to the canvas to reflect the light, or the thickness of the paint; for a poem it hardly matters what pen I use or on what type of paper I write. Whereas Sillman’s artisanal preparation will create, “just the right kind of ground for their colors to lay down on,” and the best brush is called Kolinsky sable and that “Kolinksy is a kind of weasel that lives in the snow in Siberia,”[2] truly of course it doesn’t matter which pen or what colour ink I use. Ultimately, it won’t alter the meaning of the words or how the words relate to each other, nor how the reader will read them once the work goes into print.
I envy artists who have at their disposal brushes, spatulas, palette knives, charcoal and paint, i.e. tools and materials with which to execute their craft — stuff to do stuff to, to create depth, silhouette, space, mass, tone, texture — to make something, an object that is distinctly separate and other to reality.
Likely, that is why I am drawn to poets whose work shares with the reader a consciousness of its own form, work that conveys the process of how it came into being, the various elements that were considered, the decisions that were made, where the traces of what was discarded linger on the fringes and in the shadows of the work. As architect Louis Kahn’s says in one his lectures, another book in my lockdown library, “In everything that nature makes, nature records how it was made. In the rock is a record of the rock. In man is a record of how he was made.”[3] In a poem a record of this process can be an enjambment, when it is the un/intentional place where a thought-process splits off, or is employed to signpost an intersection of multiple reading-directions. It is that vulnerability towards its own integrity that makes why I am drawn to poems that are committed to the inseparability of form and content.
Writing a poem can drive you nuts. Often, what gets in the way of a poem is the words. Much of writing a poem is scraping away knowledge of language as it is used in the everyday. Language belongs to and is shaped by everyone. Language is propaganda, “an apple a day…”, “Arbeit Macht Frei”, “Make America Great Again”. Language can be an act of revolt, “Workers unite!” “People not profits!” It can articulate the most complex rhetoric and create the most beautiful image, “’Hope’ is the thing with feathers.” It can sell stuff, “Just Do It,” “Beanz meanz Heinz”. It is a constant challenge to the poet to dismantle these existing communication codes and constraints while simultaneously juggling the literary history and its canon with the weight of meta-textual references and the pluralism of signification of words and phrases.
There is rhythm and rhyme to consider, and metre, half rhyme, cadence, tone, line-breaks; you have to negotiate the register of words; “bumpy” being in a low register, “undulating” the higher one, and there is semantics, etymology, sound and the overall dynamics and musicality of the work. As if that isn’t enough, if like me you fancy every page to be a canvas, and the poem a miniature sketch or drawing, then there are visual aspects to consider, like letter type and letter size, the indent of the line, the size of the margins and the space between the lines. And all of this happens whilst you are writing and whilst maintaining the illusion that the work is also separate, autonomous — a poem.
You might ask, and you might, ‘but what about content, how do you decide what the work is about?’ Only a couple of days ago in the Guardian newspaper I read the English actor, Mark Rylance, telling a journalist that writers should, “tell love stories about nature to help solve climate change.” This public outcry for artists to be activists is understandable. We live in a time governed by an overwhelming sense of injustice, outrage, exhaustion, a sense of teetering on the precipice of a catastrophe. Our senses heightened, we live in a state of constant alert. Reality has lost all shape. Experimental poets are deemed elitist and detached from the issues that blight society and our planet.
Changes have to be made. The artist, that outcast, rebel, seeker, explorer, independent thinker can be easily recast as a messenger of hope or activist for change. But how? Should I stop writing, go defiantly mute at poetry festivals — withhold creativity as a sign of protest? Should I write songs of protest, like Bob Dylan? Tell love stories to help solve climate change? And even though that sounds ludicrous, and it is, the current social and political pressures on poets to create work that can be unambiguously classified as politically engaged is enormous. Boom-boom poets, beating the drum of social relevance. Why don’t we turn that model inside out? Instead of encouraging artists to be “state artists”, what if statesmen were to become more of an artist? Boom-boom politicians.
So in answer to the your question, ‘what about content’; throughout the negotiations that go into making a poem I don’t consider what the work is about. I consider the form. There is the anecdote of the painter Edgar Degas, observing to Mallarmé that, “yours is a hellish craft. I can’t manage to say what I want, and yet I’m full of ideas.” To which Mallarmé allegedly replied, “My dear Degas, one does not make poetry with ideas, but with words.”
Poems are not ideas. Poems are not prose. Poems are not mini ‘what-is-it-abouts.’ Poems are not to be answered. Poetry is not code: a poem is not a metaphor for what it is r e a l l y (really?) trying to say. As Arthur Rimbaud said when asked what his work was about, “It means exactly what I’ve said, literally and completely, in all respects.”[4] A poem is, as Rimbaud predicted, itself and itself alone.
I gaze as through a keyhole at the universe and I see shape: intercity trains, plastic bags, streetlights, nuclear reactors, a lifeboat, the shape of human bodies, oceans, mountain ranges. Even emotion and music take on a shape that is in constant flux and resists ‘about’. The power of meaning is annulled in the face of the impossibility of seeing everything at once. Everything — object, abstract or emotion — is a complex of occasions. My poems emerge through this struggle with form. How can we pinpoint ‘about’ if not through a struggle with form?
To the poet, form is a constant re-enactment, a catching-up and prophecy of our constructed, imploding, overlapping and shifting realities. When composing a poem nothing at all is fixed. Every element must be able to shift and change its relationship with other elements in its universe. Poets who question hierarchy and differentiation through their handling of grammar and syntax are not elitist or detached from issues and challenges that face society. Rather, they challenge on how we can change those structures. Meaning is constructed. Form is political in its very essence and can show us how to challenge accepted norms, structures and relationships. It is through a struggle with form that tantalising possibilities emerge, which we can refer to as content, when the reader can say, “that’s what this is about,” and the reader’s ‘that’ points at one of multifarious possibilities in the poem.
Before I finish, I want to return to something I mentioned earlier when I spoke about my love for poems that show the record of its construction. Much like nature, poems have in-built imperfections. Imperfection has resistance. Imperfection is a glitch, a slip-and-slide on a banana peel. It’s a case of mistaken identity, of accepting ourselves as flawed, curious creatures. Imperfection invites and allows for humour, complexity and contradiction, and as such offers a possibility for change. Forget about ‘about’, experiment with form, not to be elitist, alienating or detached from what’s going on out there but instead as — — -
With love,
Astrid
[1] Faux Pas. Selected Writing and Drawings, p. 56, Amy Sillman, After 8 Books, 2020
[2] Id.
[3] ‘White Light, Black Shadow’, Louis Kahn, 1968, reproduced in Louis I. Kahn, Conversatons with Students, Architecture at Rice 26, Princeton Architectural Press, 1998.
[4] qtd. Arthur Rimbaud — A Biography, Enid Starkie, 1962 287