光の書き物—国立近代美術館・空蓮房コレクションレビュー
二宮 豊
国立近代美術館の空蓮房コレクションに足を運んだのは、十二月とは思えないほど晴れやかな日のことだった。館内の一角に、ある意味で隔離された空間に、コレクションは飾られていた。ニューカラー派とその一派に影響を与えた写真家たちの作品。モノクロ作品も、カラー作品も、どれも等しくスポットライトを浴び、一際とくべつな光を集めているようだった。まったくの私見になるが、コレクションのなかから、記憶に残る作品をいくつか取り上げてみよう。
まずはロバート・アダムズによる、デンバーの路上を写し取ったモノクロ作品。一見すると、どこにでもあるような風景だが、この作品に惹きつけられたのはなぜだろう。ビートジェネレーションを代表する小説家、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』とどうしても重なり合ってしまうのは、ぼくだけじゃないはず。ロードを移動し、あるべき自分の場所を探そうとする精神は、カラーズの写真家たちが、カラー写真をアートなのだと突きつけた挑戦状に、似通っているのかもしれない。
つぎにウィリアム・エグルストンのBBQ風景を切り取ったカラー写真。火を熾したばかりなのだろうか。BBQ台から大きくはみ出るほど高く上がった火柱。その横には三輪車と車の一部が写り込み、自宅前の庭かドライブウェイで、ささやかな週末を楽しんでいることが伺い知れる。一見すると、「家族写真」かのようにも見える作品。当時のアメリカでは、カラー写真は大衆のためのものであり、アートではないと考えられていたという。しかし、エグルストンの作品を見れば、それは過ちだとすぐにわかるはず。現代に置き換えれば、誤ってスマホのシャッターを押してしまったかのような構図だが、この時代にスマホはない。きちんとカメラを構えて撮るには、撮るべき瞬間を常に準備しておかなければ、ピントも露光も合わない。それはただの失敗作に終わってしまうはずだ。計算と準備に裏打ちされた「偶然」の風景であると、ぼくは読み解きたい。
最後は、フィリップ=ロルカ・ディコルシアによる、母と幼き子の沐浴を写した神秘的な作品。アダムスやエグルストンをはじめとした、コレクションの多くは、アメリカを感じさせる作品が多かった。そんななか、ディコルシアの作品は、幻想的で、どこで撮られたのかすら、一見するとわからない。母の首に腕を回し、体の支えにしている幼子は、羽を休める天使のようだ。まるでローマ絵画のような印象すら覚える構図。光と色彩がなければ成立しない作品だ。
作品を眺めていたとき、photographyという英単語が頭に浮かんだ。photoとは、フランス語で、「光」の意。graphyは、ラテン語のgraphia、つまり「書くこと」が変化したことば。分解した意味を合わせると、「光を書く」とは読めないか。日本語では、「真を写す」ものとして「写真」ということばがあてられている。
英語が常に正しいとは決して言えないが、ニューカラー派の写真家たちは、みな、光を使って、それぞれの目で見た風景を、文字通り、書き記してきたのかもしれない。その意味においては、写すというよりも、書くということばのほうが、ふさわしくも思えてくる。
ことばと向き合っていると、こんな御託ばかり並べたくなってしまっていけない。写真は見て、からだで感じなくてはオモシロくない。このレビューに書いたコレクションはすでに終わってしまったが、詩とアートのウェブサイト、crossing linesでは、コレクション寄贈者の谷口昌良さんの作品をいつでも愉しめる。谷口さんは、ニューカラー派を代表する写真家、リー・フリードランダーから、写真の技術を学んだというのだから驚きだ。現代へと、かたちを変えて受け継がれる光の書き物を、どうぞ。
※トップ写真はcrossing lines掲載の谷口昌良氏作品。