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#27 最近読んだおすすめの本/くろさわかな

【往復書簡 #27 のやりとり】
月曜日:及川恵子〈見事な自滅〉
水曜日:泖〈積読からの漁りもの〉
金曜日:くろさわかな〈わたしはたくさんの他人からできている〉

わたしはたくさんの他人からできている

積読してしまうのがわたしだけではないようで安心しました。

わたしの場合はネットの「ほしいものリスト」に積んであることも多いです。だけどそのうちに「これなんでほしいものリストに入れたんだっけ?」となる本も出てきてしまったり…。

ほしいっていう気持ちはタイミングもあるので、リスト化してとっておこうとしても難しいですね。

ほしいタイミングとお財布具合と読みたい気持ちがマッチして、読めるだけの時間もとれて、さらに内容がその時の自分に響く内容だったって、ちょっとした奇跡なんじゃないかしら。

そんな、最近の奇跡の1冊は平野啓一郎 さんの『私とは何か──「個人」から「分人」へ』です。

たった一つの「本当の自分」など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。個人よりも一回り小さな単位「分人」を提案し、人間の基本単位を考え直す。

人格の最小単位は「個人」ではなく「分人」で、「分人」は人とのコミュニケーションによってその人ごとにつくられていく。「個人」は、その「分人」が集まって(部分的に重なり合って)できている。
この平野さんの考え方は目から鱗でした。

わたしは、相手によって自分のキャラが変わることに対して、ずっと小さな罪悪感がありました。子どもたちの前ではおふざけキャラなのに、仕事ではバリキャリ風、ある友人には抜けていると心配されて、別の友人には頼りがいがあると言われる。これって、相手に合わせて自分の個性を曲げているのではないか、偽物の自分、仮面を被った作り物の人格なんじゃないか、って。

だけど、じゃあ本当の自分はどんな性格なんだろうと考えた時、なんにも出てこない。空っぽに感じました。それがすごく怖かった。自分は誰かがいないとなんにもない。周りに合わせて生きていくしかない、無個性で八方美人なわたし……。

でもね、本当の自分なんてなくて当たり前だと平野さんは言ってくれます。

相手によってキャラが変わるのは、それぞれの相手と反応しあって作られた「分人」が強く出るから。それは自分を偽って演じているのではなく、あくまでも相手とのコミュニケーションを通じてできた「分人」で、「自分の一部」なのだ、と。

分人という考え方を取り入れると、自分がたくさんの他人からできているということに改めて気が付きます。あの人といると楽しいなと感じるとき、自分の分人もキラキラしている。逆もまた然り。分人は混ざり合ったり比率が変わったりするので、キラキラしている分人を増やして、そうじゃない分人を減らしていけば、自分のことがもっと好きになれるのかもしれません。

そして、わたしが分人という概念で一番素敵だなとおもったのが、分人は間接的に作られることもあるというところです。

泖さんが紹介してくれたサンキュータツオさんの『ほかでもない、自分が語らずにだれが語る、と思える人物』という言葉。あれは、タツオさんの中にその方との分人が色濃くできているということかなと思います。それを語り継ぐというのは、単純にストーリーとして知ってもらいたいというわけではなく、亡くなってしまった方との分人を通じて、第三者に間接的に故人との分人を作り出したい、ということではないでしょうか。そうすることで故人の素晴らしさ─それに触れることで起こるよき化学反応─が、多くの方に伝わっていくことを望んでいるのではないかなと感じました。

今までは、死んでも心の中で生き続けるという言葉が単なる慰めのように聞こえることもありました。今は素直にそうだなあと思います。生きるということは、誰かの分人として影響を与え続けることなんだと。


自分が嫌いになりそうなとき、自分がわからなくなってしまったとき、心に穴が空いてしまったような喪失感に襲われた時、処方箋として持っていると安心の1冊です。


そうそう、娘のおすすめは村田沙耶香さんの「生命式」という短編集です。この中の「孵化」は、分人化が極端に行き過ぎたような主人公のお話。

合わせて読むとさらに深く味わえます。


くろさわかな

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