初蝉や 遊びをせんとや 生まれけむ
毎回、冒頭でセラピストから受け取るメッセージ。セラピー終盤になると、厳しい内容になってきました。
母が亡くなってちょうど4ヶ月経ちました。時々、遠方の母の里から電話があります。
「気立てが良くて、優しかった。」
「職場のマドンナ的存在だった。」
親戚の方々が懐かしむ、在りし日の母の姿です。母が抱いていた自己イメージも、このようなものだったのかもしれません。
ふいに「家族のために自分を後まわしにする人生をやりきって、母は満足だったのだ。」と合点がいきました。
豪農の家に生まれた母は3歳で父親を亡くし、地域で力のある親戚に囲まれて育ちました。彼らに気に入られることは重要だったに違いありません。
「出来過ぎず、ダメ過ぎず、普通でいなさい。」
母が私に対して暗にそう求めてきたのも、このためでしょう。転勤族のサラリーマンと結婚し郷里を遠く離れても、母の頭の中は親戚原理主義だったのです。
私は自己犠牲的な母が哀れで、なんとか家族の関係性を変えたいと、昔は思っていました。けれど母のやりたいことは私が思っていたようなことではないので、そんな心配は無用だったのです。
人は皆それぞれ、やりたいゲームを選んでいます。母が生涯をかけてやっていたのは「自分を引っ込め、どれだけ役割をちゃんと果たせるか?」というゲームだったのでしょう。
「余計な心配や手助けをされたらゲームに負けてしまう!」とばかり、私の気持ちを拒んでがんばり続け、最後まで子どもの世話になることを嫌いました。
葬式後、私や弟には内緒で病気の治療をしていたことも、母の遺した物の中から知ったのです。
「お母さんは『役割ゲーム』に大勝利したし、最後は娘に全てを理解されて大往生だったよと思うよ。」
セラピストは笑顔で言いました。私がその意味を完全に飲み込むのに4ヶ月かかりましたが。
「同じ女として嫌だなぁ。」としか思えなかった母の「役割ゲーム」。ずっとそれしか見せられてこなかった私も、いつしか同じゲームをやっていました。
よく考えてみたら、私には合わないゲームだったのですが、役割を果たせない私には価値がない、そう思い込んでいたのでした。
私が何をしたいのかに立ち返ったとき、初めて家族も私も幸せで、互いに高め合う関係になれるはずです。
どうやらゲームを替えて「この状態を出る!」という望みが出てきました。留まることをよしとせず変化していく「脱出ゲーム」が今の私のゲームです。