ともかくも GOHOBIメロン フラペチーノ
精神分析的セラピーを受ける中で、反省の多かった子育てについて、振り返っています。
セラピスト曰く、私が「自己否定に注いでいる多くのエネルギー」を、もっと基礎代謝に回したい…!
実家や義理の親との関わりが多かった、結婚から出産の時期にさかのぼります。
手助けはありがたかったものの当時すでに30代半ばで、ずっと自活してきた私にとって、親の言動は受け入れ難いものもありました。
この期に及んで「親戚にどう思われるか」が何よりも大切な母から、私は全否定されたように感じました。
今だったらすぐに距離を置くと思いますが、その頃は私もまだ、娘をしなければならないと思い込んでいたのですね。
産前産後の私を気遣う余裕すらないほど、母は自己価値を守ることに必死でした。
私の勝手を許してしまえば、母が生きてきた基準の正しさが揺らいでしまうからです。
そして母への反発は私を「母がしたのとは正反対の子育て」へと駆り立てました。
母が「病院で陣痛促進剤、鉗子分娩、粉ミルク」で私を産み育てたのに対し、私は「助産院や自宅での自然分娩、完全母乳、布オムツなどの自然育児」を実行します。
そして、実母よりも圧倒的に知識と経験の豊富なカリスマ助産師の指導に、私は傾倒していきました。
自然育児は手数がかかりますが、それはかけがえのない我が子のためと、私は思い込んでいました。
当時は意識していませんでしたが、うわべは我が子への愛情でも、実は母を否定するためであり、私の自己価値のためでした。
自分を愛せていない親がつくり出す愛情不足の子ども、そしてその繰り返し。
どうしたらこの仕組みから出ることができるのでしょう?
各々自己価値を上げていくしかないのですが…
自分を追込む修行のようだった私の子育て。幼児期、学童期も思うように行かず追い詰められたこともありました。
子どもたちは可愛くて仕方なかったけれど、子育て中は苦労した方だと思います。
しかし今一度、子育てをあえて捉え直すとしたら、「そのとき私がやりたかったことを、やりたいようにできた」と言うこともできます。
自己価値のためだった、という苦い思いは一方に置き、「それでも、そのとき私がやりたい子育てをやりきった」という一面を認めてみることで、目の前が開けたように感じました。
思ったように行かない体験にも価値がある。体験に良し悪しはなく、私が判断を下しているに過ぎません。
「ものは考えよう」とは言いますが、完全に腑に落とすには順序やタイミングがあるようです。
ともかく、あの頃のことを自ら全肯定しないことには、先に進めなかったでしょう。
結局、私も母に似て、自分に厳しかったー。これからはさっさと自分にごほうびをあげる方向にシフトします。