命のしまい方
私の父が先日78歳で亡くなりました。
その一部始終なので、重い話です。
父(じーじ)の立派な最期を自慢しつつ
自宅で看取ることについて感じた事など
そんなこんなを綴りました。
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1年前、命の停車場という映画をみた。
主人が仕事関係でもらってきたチケットで
内容もちゃんとわからないまま
じーじとばーばと私の3人で映画館へ。
映画の内容は暗く、そして重かった。。。
主人公の父は病気で全身の痛みに苦しみもがき、『命のしまい方』について悩み苦しむ父と娘の話。
少し前に肺ガン&肺気腫と診断されていたじーじには少し酷な内容だったかな。。。と
思いつつも、まだまだうちにはやってこない、
映画の中のお話として、暗い映画だったね。。。なんて笑いながらランチして帰宅。
そんな映画を観たこともすっかり忘れてた。
あれから1年ちょっと。
じーじは、とっても強く優しい『命のしまい方』で旅立ちました。
もしかしたら、あの映画を観てじーじなりに考え、残されたものが辛くない『命のしまい方』を決めていたのかもしれない。。。なんて。
2年前に結婚50周年を迎えたじじばば。
肺気腫と肺ガンの検査をした後で、
私は嫌な予感を感じたのか、
じーじが暗い表情になってしまう前に笑顔の仲良し夫婦の姿を残しておきたいと、知り合いの写真家さんに記念撮影をしてもらった。
サプライズで用意した花束とコサージュを
嬉しそうにつけて、頼みもしてないのに、ばーばの手を取り、仲良く手を繋ぐ、とてもいい表情の写真が撮れた。
それから間も無く、やはり肺気腫と肺がんと診断され、これはだいぶ苦しかったでしょう??と酸素ボンベをつけることに。
最初は動く時など苦しい時に使用する感じで
これさえあれば、どこでも行けるね♪なんて
友人と食事に恵比寿まで出かけたり、
ばーばと2人で近場のホテルでのんびりしたり、
不便ながらもそれなりに上手に付き合ってた。
今年に入ってから、だんだんと酸素が離せなくなり、家の中でも常に使用するように。
3月の定期検診では、
『少しステージが上がったね。だいぶしんどいよね??』と先生に言われるも、動かないと肺が固まってしまうから、ゆっくり自分のペースでいいから、頑張って動くようにはしてねと
先生に言われ、頑張って動いてたのに。。。
今思えば肺ガンの影響だったのかもしれない…
咳がひどくなり、その影響で酸素不足になったようで、お風呂に向かう途中で失神し転倒。
頭を打ち、軽い内出血もあったため、安静にしながら検査をすること2週間。
心臓にも、脳にも異常なし!と太鼓判を押されるも、2週間の安静がじーじの肺をすっかり固まらせてしまったようで、日に日に酸素濃度は低くなり、コロナ患者なら救急車で搬送されるであろう、90以下になることが頻繁に。
4月18日の定期検診では医師から、もう今後はできるだけ動かないで、残りの命を大切にしながら生活したほうがいいと在宅医療を勧められ、次回の検診のときにコーディネーターさんと相談しましょうと帰宅。
咳の薬を強めてもらったので、これで少し楽になるといいね♪なんて話してたのに、いっこうに咳が良くならず、酸素の数値が日に日に下がり、じっとしていても90をきってしまい、苦しそうだったので、定期検診を待たず、1週間後の25日に再度病院へ。
咳に関しては麻薬的な強めの薬を処方してもらいつつ、このまま在宅医療に切り替える手続きを早急にしましょうと、その足でコーディネーターさんの会うことに。
そして、いつどうなってもおかしくないから、
万が一のときに呼吸器はつけますか?
つけたら自宅へはもうもどれません。。。と
延命の確認をされ、その場で『延命はしなくていい。呼吸器をつけてただ生かされるための入院したくない。自宅にいたい』と
じーじの口からハッキリと意思を医師に伝えた。
待合室に出て、コーディネーターさんを待っている間、死を覚悟させられたじーじは、
きっと悲しくて辛い気持ちだろうから、
私はできるだけ気丈に振る舞おうとしたけど、
涙が勝手に溢れてきて、
じーじに悟られないよう拭わずに、
少し背を向けたりして。。。
『これからは私たちに沢山甘えていいからね。
苦しくならないように、負担かけないように
大切に生活していこうね。会いたい人にも沢山会おう!
行きたいとこにも行けるうちに行こうね!!
車椅子でどこまでも連れてくから!!』と
約束した。
帰宅後、ばーばに状況を説明しながら、
今後のことを話していると、急に息苦しそうになりながら、『今日かもしれない、明日かもしれないと思うと気持ちをどうしていいか。。。』と、じーじの顔が一瞬泣き顔になった。
怖かったんだと思う。すごく。
でも、じーじが涙しそうになったのは、後にも先にもこの時だけのほんの一瞬だけだった。
少しでも前向きになれるように
誰に会いたい??出かけられないんだから、
うちに呼ぼうよ!!とじーじの会いたい人を聞き出し、すぐに連絡をとることにして
在宅医療へと覚悟を決めた。
その次の日には市の職員さんが介護保険の認定に来てくれて、
介護保険や在宅医療の手続きをすすめた。
お風呂用の椅子があるといい。
外に出る時の車椅子がほしい。
ベットはまだいらないけど、ゆくゆくは入れたほうがいいかもしれませんね。
。。。なんてできるだけ快適にじーじが生活できるように話してたのに。。。
段取りをしている間にも、日に日に状況は悪くなり、じーじはますます苦しそうになり、咳き込んだり、少し動くだけで失神してしまうように。
酸素を強めることで、失神は回避できるようになったものの、その日から怖くてベットから動けなくなり、家族とも食卓を囲むことができなくなってしまった。
そのあたりからは、本当に坂道を転げ落ちるかのように、
どんどん具合が悪くなり、座っていても苦しい。横になるのも苦しい。
食べ物が喉を通らない、食べたくない。
肺気腫ってのは本当に苦しいらしく
常に水に溺れている状況なんだとか。。。
そんな溺れてるときに、食べ物なんて
食べたいわけがない。。。
飲み物を飲むことすら苦しくて、必死だった。
5月2日にやっと在宅医療の先生がいらして、
今後の話をした。
じーじが苦しくないように、薬や酸素を調整していきましょうということ。
酸素やお薬を増やすのはリスクもあるけど、
それ以上に身体が悲鳴をあげてるから、じーじがラクだと思えるようにしましょうと。
そして、いよいよ苦しければ、少し強いお薬を使って、カラダを楽にすることもできるが、かなりリスクもあって、もしかしたら目が覚めないこともあるということ。
どうしても苦しい時、相談して使いましょうと。
じーじ本人も意識はしっかりしてるので、
その話をしっかり把握したようで、少し厳しい暗い表情をしたように見えた。
それから私とばーばに対して先生から、
かなり状況は厳しいと話された。
今日でもおかしくないと。
会わせたい人がいるなら、できるだけ早い方がいいと。
そして、もし自分達が寝てる間に、じーじが旅立つことがあっても、それは日常の中で苦しまずに永遠の眠りにつけると言うことだから、じーじにとってそんな幸せなことはないですよと、少しピリピリと24時間体制で見守り続けなきゃ!と気負っていた私たちを諭してくれた。
でも、頭では理解できていても、自分が寝てる間に。。。それじゃじーじが可哀想とか、
苦しませてしまうかもと、結局、私もばーばも、一瞬たりともじーじから目が離せない緊張感の中での生活が数日続いた。
そんな中でも、会いたい親戚、友人が駆けつけてくれて、その間はとても嬉しそうに、元気そうに楽しい時間を過ごした。
楽しくだれかと話したあとのダメージは大きく、どんどん状態は悪くなる。
5月7日の夜、明日は大好きな高校からの仲間が駆けつけてくれるし、明後日は妹が来てくれるねって話をしながらも、明後日の妹まで待てない!!間に合わない!!私の中でそんな予感。
慌ててじーじの妹に連絡して、明日に変更できないかとお願いをして、午前中にきてもらうことに。
じーじに明日午前中、妹が来れることになったよ。午後は、お友達が来てくれるからね♪と励ましながら、寝かしつける。
もうこの時、眠ることが難しく、座ってる方がラクだと座ったまま寝る。でも、それだと呼吸が止まってしまうため、咳が出ないよう良い体勢を取りながら、横になって『鼻から吸ってー、口で吐いてー』と何分くらい向き合ったんだろう、じーじがうまく眠りにつけるまで、背中をさすりながら何度も何度も。
でも、不思議とこうすると呼吸が止まることなく、眠りにつけたから、しばらくは私は寝かしつけ担当でずっと側にいた。
それでも、眠れるのは3時間程度。
途中途中、咳き込んだり、身体が痛いとさすったりしながら、なんとか眠れて3時間。
23時頃寝て2時頃起きる、そんな毎日。
5月8日の夜中?朝方?2時
起きてしまったじーじは
もう寝てしまったら永遠の眠りについてしまいそうだからと、もう寝ないと言い出す。
そして、苦しいのを堪えながら、一生懸命自分の言葉で話しをしてくれた。
『今日で会いたい人に全員会える
それまでは頑張ろうと今日まできたけど
もうこの後は頑張ることをやめる
ラクなように酸素も強めたい
薬も使って、もう苦しいのを終わりにしたい
苦しいのも限界だし、
お前たちのことも休ませてあげたい。
もう会いたい人にも会えた。
本当にいい人生だった。
人生に悔いなし。
2人には本当に感謝してる。
薬を使うことで後悔はしないでほしい
これは俺が決めたことだから、
2人はそこに責任を感じることはない
誰に何を言われても自信を持っていい
本当に良くやってくれたありがとう』と。
ばーばと私の手を力強く握りながら
苦しくて、声も小さかったけど
しっかりゆっくりと、私たちを慰めるように、
説得するように。
この時、はじめてじーじの前で2人とも号泣した。
そして、私たちも感謝をいっぱいいっぱい伝えた。
朝が来て、なんとか無事に妹と、お友達と会うことができた。
高校からの仲間たちとは、嘘のように元気に楽しく時間を過ごせた。みなさんが帰る時、一人一人の手を力強く握りしめて、『今までありがとう』と小さな声で言ったとき、なんかじーじが覚悟したように思えて、また涙が溢れた。
そして、やはり次の日
呼吸がかなり苦しく厳しい状態に。
鼻から酸素が上手に吸えないから、口を覆う酸素マスクを進めるも、どうしてもマスクは嫌だという。
でもどんどん酸素濃度が低くなる一方なので
先生に来てもらい、父を説得。
酸素マスクをしたら、久々に酸素濃度が90を超え、呼吸も少しだけ安定して、テレビ見たりして。
もっと無理やり酸素マスクすすめたらよかったね。。。っていう私に、『わがまま言ってごめんなさい』って照れ臭そうに謝ってくれた。なんかほんの一瞬だけど、久々に明るい空気が流れた気がした。
でも、やっぱりそれは一瞬で。。。
そのあとは呼吸の力が弱々しくなり、見てるのも辛いほど苦しい状況。
じーじと、看護士さんと相談して
強めのお薬を使うことに。
座薬を使うとこのまま目が覚めないかも。
じーじを怖がらせないよう
少しでも身体をしっかり休めて、
また起きれたら沢山話ししよう!
でも、もしも目が覚めなかったときのために
ちゃんとハグしておこうって、順番にじーじとギューってハグして、できるだけ暗くならないよう、怖さを感じないように、無理に明るく振る舞った。
薬って本当にすごい。
すっごい気持ちよさそうに呼吸ができてる
うたた寝してても、今までは止まっちゃってた
呼吸が不思議とちゃんとできるように。
目が覚めないかも。。。の不安をよそに
3時間でパチっと目が覚めて、気持ちよかったぁと。
『ちゃんと目が覚めたじゃん!!よかったー!!ハグハグ』とぎゅっ。
でもやっぱりお薬は強いらしく、
ぼやーーーんとしている。
でも、うたた寝したり、本人はとても気持ち良さそう。
薬を使う怖さを感じつつも、じーじの久々の楽そうな顔を見て、私たちも気持ちが楽になった。
でも、それも束の間。
またすぐに苦しい時間が来てしまい、そのしんどそうな姿は今までよりも、もっともっと強く、本当に見ているのもつらかった。
そこからは苦しい時間が来ないように、座薬を決まった時間で使用することに。
5月11日、4度目の座薬を使用したあと、
急にアツいアツいと言い出したじーじ。
身体が最期の時を迎えようとしていたみたいで、どうにもこうにも身体が辛い様子。
どうしてあげたらいいの??と頭を抱えた瞬間、ちょうど看護士さんが来てくれた。
私たちが戸惑わないよう、看護師さんを待ってたかのように、そのタイミングで最期の時を迎えました。
耳は最後まで聞こえてると先生からも言われていたので、
そばにいるよーー
頑張ったねーー
今まで本当にありがとう!!と伝えながら。
私は過去におばあちゃんを看取ったことがありますが、その時は眠るように穏やかな最期だったので、亡くなる瞬間に目を見開いて、苦しそうな呼吸をするじーじを見て、
なんでこんなにずっと24時間そばにいて、
苦しませないように見守ったきたのに、こんなに苦しい終わり方をさせてしまったのかと、私は自分を責めて涙が溢れてしまった。。。
でも、その後駆けつけた先生から、人は亡くなるときに、とっても苦しそうな呼吸になるんです。
でも、もうその状態になったときは、ご本人には苦しいとかの感覚はないので、安心してください。
こんな穏やかな綺麗な顔してますから、苦しまずにお眠りになったと思いますよ。
自宅で看取ることはとても大変なことですし、本当に家族でしっかりと見守って、素敵な最期だったと思いますと。
この先生の言葉にとっても救われました。
『命のしまい方』
父は本当に立派でした。
頑固な父だったので、自分で決めたことは
ちゃんと貫いたのだと思います。
辛いとか苦しいとか弱音を吐かず、自宅で看取る覚悟を決めた家族にありがとうありがとうと、ひたすら伝えながら
自分がいなくなった後の、私たちのメンタルまでケアしながら。
死を覚悟して、そこへ向かうことの怖さは絶対にあったはず。なのにそれを見せず、父として
どしんと構え、私たちをおもいやる。
本当に強くて優しい父でした。
でも、これはごくまれなこと。
どこかの大学教授が言っていたとそうで、
こんな風に感謝を伝えあえることは、100人に
ひとり程度だと。
感謝が心にあっても、病気が言わせてくれない、
思うようにならない。そんな方が多いのだと思います。
この事を教えてくれた方も、感謝を伝えてくれないまま旅立ったお母様に、疑念を抱き、辛く、ずっと悲しみから立ち直れなかったそう。
でも、その大学教授の言葉を聞いて、
スーッと気持ちが軽くなったそうです。
私は先生から在宅医療のお話があったとき、
コロナもあったし、入院したら会えない!
そんな思いもあり、自宅で看取ってほしい!との父の願いを悩むことなく受け入れました。
むしろ絶対病院へなんか行かさない!くらいの気持ちで、家族にも相談というより、自宅で看取らせてくださいとお願いして。
でも。。。
-自宅で看取る-
これって本当に本当に大変なことでした。
プロではない私が男性を抱え上げることの大変さや、苦しんでいても、医療行為ができるわけでもなく、励まし見守るしかできないこと。
そしてトイレのケアなども。。。
私は覚悟の上でしたし
比較的メンタル強めで、すべての世話は嫌ではなかった。
でも、娘に全てを委ねるの父の気持ちを思うと
なんだかそれが辛かった。
それに、もう少し苦しい日々が長引いていたら、じーじは私たちに暴言を吐いたかもしれない。
苦しさに負けて、強さを保てなかったかも。
そして、私たちも精神的にも体力的にも限界を迎えて、優しい気持ちでじーじに向き合えなかったかもしれない。
こんな短い期間だったのに、本当にギリギリなとこまで来てたと思います。
母は血圧は上がり、手が震え出したり。
私はそんな母を見て、
私がしっかりしなきゃと張りつめ、
最後3日間ほとんど眠れず、物音に敏感になり、仮眠すら取ることもできなくなってたから。
これが長引けば、さっきまで書いてたような
素敵な命のしまい方では無くなってたかもと
思うと、自宅で看取る!そう簡単に決めた判断は甘かったのかもと少し反省すらしています。
うちは子供も高校生になってたし
仕事も自分でなんとでも調整可能な仕事だから
全力で向き合うこともできたけど、
これが小さなお子さんがいたり、外で責任のある仕事をしていたら、やりたくたってやれないし、何より介護する側が潰れてしまう。。。
それは介護される側も、きっと望んでないはず。
そのお家の、その時の状況、その時のバランスを見ながら、自宅で看取ると決める前に
本当に大丈夫か??と一歩立ち止まって考えてみたほうがいいかもしれない。
そこで立ち止まって、家族に相談して、
腹をくくってから挑まないと、きれいごとではない現実が、なかなかしんどいから。
そばにいようが、病院にいようが
どんな形を選んでも
看取る最後のときまで、優しい気持ちのまま
寄り添えることが何よりで、
そばにいることで辛い存在
重荷のようになってしまったら
それはそれで悲しすぎる。
病院でしっかり見てもらいながら
優しい気持ちのままで寄り添う
これも素敵な看取りなんだと
ギリギリを味わった今だからこそ
感じたりしています。
こんな私の父(じーじ)の命のしまい方の話、
何も人様にお知らせすることではないかもしれません。
でも、私が父を苦しませてしまったと思い詰めた気持ちから救ってくれたお医者さんからの言葉や
大学教授の言葉で救われた方のように、
どこかで聞いたりしたことで、悩まずに済んだり、悲しまずに済んだりすることもあるなら
私の経験が誰かの心に寄り添えることもあるかな?なんて書いてみました。
そして、何より自分の心の整理のために。
長々と読んで下さった方、ありがとうございます。
これから介護などに向き合う方、どんなカタチでも自分を責めることなく、そして、自分も大切にしつつ、自分たちらしい優しさで向き合う事ができますように。
私も母(ばーば)のときには、
今度は一歩立ち止まって
大丈夫か?いやいや無理かも。。など、
家族と話し合いながら、あらためてしっかりと
向き合わなきゃなと思います!!
 ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_ ̄_
最後に
じーじが旅立つまでの短い期間
とっても沢山の方々のあたたかさにふれました。
病院の先生や看護師さんからはじまり
介護保険の手続きにきてくれた地域包括センターの方
ケアマネジャーさんや、福祉用具の方、
在宅医療の先生、訪問看護師さん。
じーじのためにと動いて下さることはもちろんのこと、私とばーばのメンタルをとっても支えて下さいました。
本当に感謝でいっぱいです。
ありがとうございました。
そして、親戚たちやじーじの大切な友人の皆様も私からの連絡に素早く対応して会いに来て下さって、じーじの楽しい時間を作ってくれたことに本当に感謝しかないです。
ありがとうございました。
主人、息子、娘。
家が暗くならないよう、普通に接して、普通に過ごしてくれたことに感謝。
毎日毎日じーじの部屋をのぞき、おはよう、おやすみ、行ってくるね、ぎゅっ。
できる限り気にかけてくれたことに
本当に感謝。ありがとう。
そんな優しいみんなに囲まれて、じーじは幸せだったと思います。
いや、幸せだったと言い残しました。
本当にありがとございました。