などかは下ろさぬ

母親がキリスト教徒だったので、
僕と妹は、子供の頃には、
教会の日曜学校に通っていた。というか、
それは自分の意志で通っていたわけではなく、
母親に手を引かれて、
強制的に通わされていただけで、
後に僕も妹も、自分の意志で、
キリスト教徒にはならないという選択をした。

物事の善悪の判断もできないような幼い頃から、
特定のイデオロギーを子供に教えるというのは、
どういうものなのだろうかと疑問を持っている。

しかし、讃美歌や祈りの言葉には、
長年育まれて熟成した、
人々の希望や怨念が凝縮されており、
なかなか強く心に響いてくる言葉があった。

今でも僕のマインドに重要な影響を与えている、
3つの言葉がある。
ひとつめは「探しなさい、
そうすれば見つかるでしょう」という言葉。
聖書の中の言葉らしいが、
僕は教会の壁に貼ってあるポスターで見た。

僕は小学校の5年生くらいまで、
教会に通わされていたので、
10歳くらいの時に見たのだと思うのだが、
「へえ、そうなのか」といたく感心した覚えがある。
いやそれは、感心したなんて次元ではなく、
僕はこの言葉を読んでポロリと涙をこぼした。

きっと僕は、何かを探して、それを見つけるために、
この世に生まれてきたのであろう。
だからこの言葉に反応したのだと思う。
そうでなければ年端もいかない子供が、
なぜそんなにこの言葉に感動したのか説明できない。

僕はこの言葉を信じて、
今でも探し続けているのだが、
まだその「何か」は見つかっていない。
それが何であるかさえわかっていない。

ふたつめは「明日のことは思い患うな」
という言葉である。
これは「山上の垂訓」という、
イエスのありがたい説法の中の言葉で、
「空を飛ぶ鳥を見よ、野に咲く花を見よ・・・」
と言って、鳥や花は明日のことなんて考えず、
その日その日を精いっぱい生きている、
だから明日のことなんて心配せず、
今日を精いっぱい生きなさい、
というような内容なのだが、
これはもっと幼い、小学校低学年の頃に、
絵本のようなキリスト教の本を使って教えられ、
今でも心に残っている話である。
ただ、いまだに、
明日のことを思い患いながら生きているので、
あまり自分の生き方に反映できてはいない。

そしてみっつめは、
「などかは下ろさぬ 負える重荷を」
という言葉である。これは讃美歌の歌詞の一部。
これは不思議な言葉で、今日ネットで調べて、
初めて正確な意味を知った。
それは「何故心の重荷をおろさないのだ?」
というような意味らしいのだ。

つまり「悩みがあるのならイエス様に打ち明けて、
その重荷をおろしちゃえばいいじゃん!!」
というような意味なのである。
今日まで正確な意味を知らなかったこの言葉だが、
なぜか当時から心に残っていた。

僕は時々、日曜学校が終わったあとも、
教会に残って大人の礼拝を見ていた。
それは「この人たちはここに集まって、
何をしているのだろう?」と興味があったからだ。

結局何をしているのかはわからなかったのだが、
なんとなく、幸福で満ち足りている人たちではないんだろうな、
というようなニュアンスを感じていた。

そこで聞いたこの讃美歌の歌詞、
正確な意味はわからないながらも、
この人たちは、何かの重荷を背負っているのだな、
それがつらくてここに集まっているのだなと、
僕は解釈したのである。

当時僕は10歳くらいである。
子供って本当に賢い。あなどってはいけない。
大人が理解するのとは別の受け取り方で、
きちんと周りの状況を把握して受け取っているのだ。

僕はこの言葉を「いつか重荷をおろせる日が来るさ!!」
というような意味だろうと、今日まで思っていた。
正確な意味は知らずに勘違いしていたのだが、
この言葉は僕を支える希望の言葉として、
いつかこの重荷を下ろせる日が来るんだ、と、
今日まで生きてきたのである。

しかしそもそも重荷って何?小学生の僕が、
どんな重荷を背負っていたというのだろう。
昨日、ほんのちょっとだけ、
重い荷物のほんの一部を下ろすことができた。

僕の心にいちいちまとわりついて、
僕の足を引っ張ろうとする人の一人が、
自分からいなくなってくれることを宣言したのだ。
それで久しぶりにこの言葉を思い出したのである。

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