高峰秀子と成瀬己喜男
高峰秀子の養女になった、齋藤明美の著作より
2005年は成瀬巳喜男生誕100年の年だったので、
色々なイベントが企画され、成瀬の89本の映画のうち、
17本に主演している高峰秀子は、
講演会やインタビューの依頼を、たくさん受けたのだが、
そのすべてを断っていた。
当時高峰の一番近くにいた編集者である斎藤が、
「成瀬監督という日本映画界の宝について語れるのは、
同じ日本映画界の宝の高峰さんだけなんですよ」
というような趣旨のことを言うと、高峰秀子は、
「成瀬さんと私の間には誰も立ち入ることができない、
成瀬さんと私にしかわからない・・・・変な意味じゃなくてね。
だから成瀬さんが死んだ時、あぁ、私も終わった。
私という女優が終わったと思った」と答えたそうなのである。
なんという潔い考え、この監督が死んだなら、
私という女優ももう終わりだと思うような、そんな女優さんがいて、
その人と二人で、日本映画史に残るような、
映画を撮ることができたなんて、
成瀬は監督として幸せだったろうなと思った。
1986年に東京の三田で行われた成瀬の回顧上映で、
ゲストに招かれた高峰秀子が、
ガンで入院している成瀬の病室を訪ねた時、
「あの、秀ちゃん。僕ね、もう一本だけ映画を撮りたい。
それはね、バック、ナシ。白バックか黒バックの前で映画を撮りたい。
その時は出てくれる?」と言われたという話をしている。
これは高峰に対する絶対の信頼がなければ、出て来ない言葉である。
病床にあっても、成瀬は次の映画のことを考えており、
その主演には高峰秀子をと思っていたのだ。
成瀬は1967年、昭和42年に亡くなっている。
僕が成瀬を知った時は、成瀬は一度忘れ去られて、
アメリカの女性評論家によって再発見されて、
再評価されようとしている時だった。
これだけの才能を持ち、これだけの作品を残していながら、
あまり高く評価されることもなく、日本映画界においても、
小津、黒澤、溝口に次ぐ、「4番目の監督」、
というような評価しか得ていない成瀬だが、
高峰秀子のエッセイを読むと、
高峰秀子が、小津や黒澤よりも、
成瀬や木下恵介のことを高く評価しているのがわかる。
やはり話が成瀬に脱線してしまった。
それで高峰秀子だが、もうひとつ驚いたのは、
2000年頃に、斎藤明美がテレビから録画したものを見るまで、
高峰秀子は「浮雲」を見たことがなかった、ということである。
自分が出演した映画には興味がなく、
ほとんど見たことがないという高峰秀子。
数々の映画賞を受賞した「浮雲」も、
完成から45年ほど経ってから、
初めて見たのだそうだ。しかもビデオで。
ビデオを返してもらう時に、斎藤が「どうだった?」と聞くと、
「いい映画だった。高峰さん、上手いね」と、
まるで他人事のように言ったそうだ。