予感が当たる時
『これは2013年に書いた文章です。』
時々、なんとなく、
「このままではやばいな」と感じることがある。
それは例えば、友人のものの考え方であったり、
ある人の自分の子供に対する態度であったり、
取り引き先の仕事上でのやり方であったり、するのだが、
仮に僕がそのことで意見したとしても、
「余計なお世話だよ」と言われそうなことばかりなので、
何も言わずに黙っていることが多い。
そのまま数年経って、
その友人は今どうしてるかとか、
その人の子供が今はどうなってるかとか、
その会社がその後どうなったかとか、
消息を聞くことがあって、
「あ、やっぱりそんなことが起きていたのか」と、
僕の予感通り「やばい」ことになっている、という場合が多い。
具体的な例を挙げた方がわかりやすいとは思うのだが、
ネット上ではあまりハッキリ書かないほうがいいようなので、
抽象的な表現のまま行かせてもらう。
『今は2021年なのでもう時効だから書かせていただくが、例えば友人がガンになっていることが発覚したり、バイク事故を起こして死んでしまったり、子供が亡くなっていたり、その会社が潰れて消滅していたり、などのことが実際に起きている。』
僕が何も言わずに黙っていたために、
その「やばい」ことを
未然に防ぐことができなかったとも言えるが、
仮に何か言っていたとしても、
それを未然に防げていたかどうかはわからないので、
「ああ、なんであの時言わなかったんだろう」と、
自分を責めたりする必要はないと思っている。
それでも、数年前に自分がうすうす気づいていたことが、
実際に起きていたり、時には、自分が予想していた以上の
酷い結果になっていたということを知ると、
やはり心はどんよりと落ち込んでしまう。
つい最近も、ある出来事を聞いて、
「やっぱりそうなったか」とガッカリしたし、
今でも、なんとなく気にかかりながら、
どうしていいかわからずに、
そのまま保留にしていることがいくつかある。
僕の表現が拙いということもあるが、
意識的に挑発的な発言をすることもあるので、
僕の発言は、受け取りようによっては、
人を否定するような発言、
人を批判するような発言、
人を褒めるような発言、
人を励ますような発言、などと、
意図に反して色々な解釈をされてしまうし、
実際に誤解されることも多いので、
基本的にはあまり言わないようにしている。
それで、言おうとした言葉や、言いたい気持ちが、
自分の身体の中に少しずつ溜まっていく。
王様の耳はロバの耳って、
こういうことだったのだろうか。
人を否定するような発言、批判するような発言と、
誤解されかねない発言は極力控えるようにして、
人を褒めるような発言、励ますような発言と
受け取ってもらえるような、
プラスに解釈できる発言だけを、
積極的にしていきたいと思っている。
『この文章を書いた時は47歳くらいで、この頃はまだ、こういうことにかなり真摯に悩んだりしていた。今はもう55歳になっているので、そもそも言おうか言うまいか迷ったりしないし、そういう人と出会うことも少なくなっている。』