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「新宝島」と「SF3部作」

手塚治虫が「新宝島」で
日本のサブカルチャーのみならず、
世界の文化における、
偉大なる一歩を踏み出したのは、
1947年、昭和22年のことである。

当時の漫画出版は
描き版と言って、
作者が書いた原稿を
出版社の作業員がトレースして、
印刷用の版下が作成されていた。
つまり印刷されていたのは
手塚治虫が書いた絵ではなかったのである。

更に「新宝島」の原案は、
酒井七馬という、
漫画家、編集者によるもので、
酒井七馬から受け取った原案を元にして
手塚治虫が書いた原稿は250枚あり、
それを出版する都合で
190枚に減らされ、
ネーム(セリフ)も
酒井七馬によって書き換えられたり、
絵も訂正されたりしていた。

そのため手塚治虫は、
「新宝島」を自分の作品と認めず、
1977年から刊行が始まった、
手塚治虫漫画全集にも、
当初は収録される予定はなかった。

ところが「新宝島」は
ある意味エポック的な作品なので、
1984年に手塚治虫漫画全集の
第一期300巻の刊行が完了する寸前まで、
講談社との協議が繰り返され、
結局手塚治虫が全編書き下ろして、
最終回の配本で全集に加えられた。

このような事情から、
僕は今回、2019年に読むまで、
「新宝島」という作品を
読んだことはなかった。

「SF3部作」の1作、
「ロストワールド」だけは、
小学生の時に、
桃源社から復刻されたものを読んでいたが、
描き版から起こされたものだったので、
画質も悪く、絵のタッチも違って、
かえってガッカリした記憶がある。

しかし手塚治虫の原点は
このあたりの作品であるという言説は、
当時から蔓延していたので、
僕は手塚治虫の真髄を
知らずに今日まで過ごしていたことになる。

だからといって、
手塚治虫の本質を
まったくわかっていなかった、
ということにもならず、
僕の手塚治虫体験は
「0マン」から始まっているので、
「鉄腕アトム」も「ジャングル大帝」も
原作を全部読んでいるわけではないが、
それでも僕は手塚治虫の影響で
漫画を好きになったと言えるし、
手塚治虫の影響で自分は形成されたし、
手塚治虫の影響下で
今日まで生きてきて、
それを誇りに思っている。

ちなみに僕が最初に
リアルタイムで感動した手塚治虫の作品は、
昭和51年に「少年ジャンプ」に掲載された、
「四谷快談」という読み切り短編である。



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