学びについて思うこと
今朝の #こえのブログ
私自身が勉強の場としていた「学校」という環境を振り返ると、
正しいとされている「一般論」を
「そういうものだ」とただ受け入れることを
勉強であると思っていたように感じます。
数学も化学も、古典文学も現代文も
歴史も政治経済も、
ただただ、教科書に書いてあること
先生に言われたことを「正解」として
それをテストで答えられるようにすることが
「勉強」でした。
しかし、そうではないと知ったのは、
大学生のときです。
和歌に興味をもって進んだ日本文学科では、
1年生の基礎教養として、担任教諭の講義を受ける時間がありました。
私のクラス(1年生のときだけ一応クラスがありました)担任は近現代文学の教授だったこともあり、題材は「舞姫」でした。
高校生のときも教科書に載っていたので、読んだことはあります。
とはいえ、高校3年生の受験勉強真っ只中での授業でしたので、必要最低限しか触れることはなく
あまり記憶に残るものではありませんでした。
大学では課題として、
「班ごとに担当区分の文章を研究すること」
を与えられました。
あまりにもざっくりとしていて驚きます。
文章を研究するって、なんだろう……
何を研究すればいいのだろう……
毎週の授業で、1班ずつ研究箇所を発表して、それに対する質疑応答や意見交換を行うことが授業中の主な流れでした。
とにかく舞姫に関する論文を探して読み、あらゆる意見が舞姫に対してあることを知る驚きから始まりました。
細かい研究成果を覚えていないことが私の落ち度なのですが、
主人公の感じる「黒いもの」に対する考察をまとめた文章を書き上げた部分が、私の成果としては取り上げたと記憶しています。
それに対して、先生から受けた評価は
「今までにあまり見たことのない見解ですね」
ということでした。
これは、大学受験までの評価であれば
マイナスだったと思われます。
教科書や通説になっている「正解」ではないからです。
しかし、教授は「面白い」という評価をしてくれました。
これがゼミ生や専攻生であれば、もう少し厳しい追求もあったかもしれませんが、
基礎教養として授業を受けていた私にとって
「大学の勉強とはこういうものなのだ」
ということを知るのには、とても興味深いスタートでした。
2年生からは和歌を専攻していましたが、文字が少ない分たくさんの想像の余地があります。
先行文献を拝見していても、歴史を追うごとにその解釈が180度二転三転するようなことが何度もありました。
どれが正しいかなんて、わからない。
そんな当たり前のことに、改めて気づかされたように思います。
思えば、必死に覚えた
聖徳太子のことも、鎌倉幕府のことも
今の歴史では違うものが正しいとされています。
「正しいもの」なんて、わからない。
でも、だからこそ
自分が思う「正しいものに近づくため」の勉強は、とても自由で面白いように感じました。
だからこそ、
教科書や先生の言葉に疑いも持たずに、ただただ受け入れることを「勉強」だとする学校の形には、やはり疑問を感じざるを得ません。
たくさんの分野に満遍なく触れる場所としては、良いと思っています。
どんなことにも、興味を持つ入口はあって然るべき。
私は子どもに、「色々なものにまずは興味をもって触れてみること」は、ぜひおすすめしたいと思っています。
そして、多くの先生方は、子どもたちが興味を持つための工夫をしてくださっていると思います。
しかし、「正しいものを答えられるようになることが勉強ではない」という自覚をお互いにもって臨めているかどうかで、その時間の成果は全く違うものになると思うのです。
「なんのためにそれをやるのか」を考える環境をつくるのは親の役目だと、よく旦那さんとは話しています。
学校にいくこと、幼稚園にいくこと、
勉強をすること、本を読むこと
それぞれは手段であって、目的ではありません。
それぞれの過程を経ることで、子どもがその先になにを見つけられるのかは、親のアプローチやサポートの仕方がとても大きく関わっていると思います。
そのことを想像したときに、今の自分はあまりにも未熟です。
だから私は、今自分が勉強をするべきだと感じています。
子どもに多くの選択肢を見つけてもらうためにも、親として多くの選択肢を知っている方がいいのではないかと思ったからです。
子どもの未来を想像したときに、今の私では想像しきれないほどに、あらゆる面で進化を遂げた未来が待っていることと思います。
そのなかでも迷うことなく、
求める「在り方」であってほしい。
そんなことだけを切に願い、私は自分の今を、大切に過ごそうと思うのです。