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第1段-2 『lilbesh ramko 終末collection論 コロナ禍を漂うモラトリアム、君との決別』

   前回まで

 はじめたばかりのPodcastでlilbesh ramkoさんを取り上げることに決めて、『終末collection』用の台本を書いていたのですが、あまりに長すぎたのと、自分の胆力がなさすぎて、lilbesh ramkoさんの『終末collection』にまつわる文章のみを投稿することに。
 歌詞の考察を行って、タイトルにもある『コロナ禍を漂うモラトリアム、君との決別』というテーマに沿って少し視点を俯瞰して更に作品を語るための文章を書いていた。読んでない方はこちらから。

   

   コロナ禍を漂うモラトリアム

 lilbesh ramkoさんは今23歳で、社会人一年目になる年齢だと思うんですけど、Xを見る限り休学してるみたいなんで恐らく今は大学四年生なのだと思います。この年齢を考えると、高校受験から大学生という所謂モラトリアム(執行猶予)の期間がコロナ禍と重なっている世代なんですね。
 つまりこれはコロナ禍という社会自体が機能不全に陥って、いきなり宙に浮かんでしまったような…そこにいるほとんどの人々は可能な限りウイルスを広めないようにマスクをして、できるだけ家に籠るという休日のような日々を過ごさざるを得ない、そんな社会のモラトリアムと人生のモラトリアムが重なっていたのがlilbesh ramkoさんの高校三年生から大学生時代だったのではないかと。
 大学という場所は自由であるが故にコミュニティ自体も分化していて、サークルや学部内で人間関係を築かないと、宙ぶらりんになってしまう。
 そんな中でコロナ禍、人と人を繋げることができたのはインターネットだけだった。ZOOM飲み会、リモートワーク、リモート授業、SNSでの関係性と現実の人間関係が本当の意味で等価、もしくは反転した時代だったのではないかと思うんですね。コロナ禍がアルゴリズムによってパーソナライズされた世界観を加速させていったと言っても良い。フィルターバブル、エコーチェンバー、個々のフィルターが大量にある世界観。個の世界が拡張されていくけれど、現実としてそれらが反映されているわけではなく、ただコロナウイルスが流行している現実は停滞していて、画面の向こう側だけがただひたすらに広がっていく。
 『終末Collection』に関して感じるのはこの停滞感ーーーネットやサブカルコンテンツが散りばめられているネット空間が内的世界に広がっていく感覚と、実生活の人間関係が閉塞する感覚。これらが時には重なり合い、往還しながら、lilbesh ramkoさん自身の童心への回帰、将来への不安、時間は過ぎ去っていってしまい、普通に成長してしまうことにより引き裂かれるモラトリアムの若者の姿がそこに描かれているのではないかと考えました。

 『終末Collection』を聞いて思い出したのはそういうコロナ禍の、明らかに非常事態なのに、閉塞感と停滞感がモラトリアム的な心地良さに包まれてしまうような感覚。そういった要素をキャプチャーした作品なのではないかと思いました。
 それらは歌詞の中にも現れていて、「少し眠たくなる 何もできなくなる 僕が生きる時間 君のきもちわかる」これは『pk (flash) Ω.』という曲の歌詞ですが、まさしく停滞感のなかで何も動けなくなってしまうという感覚を表現しているようにも思えます。
 代表曲の『i (dont) know.』という曲では「わからないよ 何も 考えないで dancing all night long 寝過ごしてきた 君と二人 わからないこの感情の先を探してる i don’t know (i don’t know)」という歌詞になっている。
 ここで改めて作品の中で一貫して描かれている、僕と君という関係性に触れておきたいと思います。lilbesh ramkoさんのインタビューを参照すると、恋人について言及してるんですね。

「ずっと一緒にいたい、将来もそうしたいって思うじゃないですか。そうすると『このままで大丈夫かな』ってすごく不安になったんですよ。」

 コロナ禍の中で限定された人間関係の閉塞感と居心地の良さ。そして世界に対しても、恋人に対しても、この先どうなってしまうんだろう、という不安感が漂っている。
 これらが描かれているlilbesh ramkoさんの作品は、コロナ禍がもたらした一時的に社会領域が消失した、「君と僕」の世界を描いているとも言えるかもしれない。
 これは00年代的に勃興したセカイ系との相似を見てとることができるのではないか? と思いました。

   セカイ系と『終末collection』

 セカイ系というのは、今更かよ、という人もいるかもしれませんが、改めて説明すると2000年代辺りで勃興した日本のサブカルチャーの物語の類型です。定義はいくつかあるんですが、比較的ポピュラーな東浩紀さんの定義を挙げると「方法的に社会領域を消去した物語」というものがあげられます。
 lilbesh ramkoさんの『終末collection』はそういった文脈の中にある作品だと考えました。音楽の中でこういった歌詞の世界観を描いたものは、いくつかあると思います。RADWIMPSや銀杏Boys、ロキノン系のバンドなどもそういった形で言及されることがありますね。
 ただここまで直接的に「世界の危機」「終わりゆく世界」の中での君と僕の関係性が、コロナ禍という現実の出来事と暗喩的に繋がる形で描かれ、それらがY2Kムーブメントと重なった時期にハイパーポップとして昇華していることがとても興味深いと思いました。
 グリッチを強調したサウンドと唐突な展開、しかしあくまでポップであり、アーティストの主観的な意識が前面に出るというハイパーポップのあり方は、セカイ系という物語の枠組みで傷だらけの若者の感情を描き出していくという本作の方向性との相性がとても良いと感じました。
 

 『終末collection』における「君」とはなんだったのか?

 歌詞に戻って『終末collection』において「君」というのが改めてどういった存在だったのか? というのを問い直していきたいと思います。
 先述したlilbesh ramkoさんのインタビューを踏まえると、「君」というのはその当時付き合っていた恋人である、という風に考えるのは一つの見方かもしれません。
 しかし、敢えてセカイ系という文脈を含めて穿った見方をするのであれば、世界の命運と「君」という存在が結びついていると考えると、示しているのは我々の住んでいた、コロナ禍以前の世界そのものと言えるかもしれない。また、僕自身の過去の分身、もしくは感情そのものと言えるのかもしれない。
 多義的で断定不可能な「君」はあらゆる意味で剥き出しのイノセンスを表象しながら、音の残像とともに「僕」の前から消えていく。叶うはずのない逢瀬が夢の中で描かれてしまった瞬間ほど、迎える朝は残酷な喪失感に満ちている。そんな瞬間を誰しも一度は経験している。
 コロナ禍によって、それまで関わっていた人々や風習のいくつかが失われてしまった後の世界線に私たちは生きていて、Y2Kブームが表象していた世界観は既にカルチャーコンテンツや、Tiktok上のノスタルジーに満ちたショート動画の中に、その幻影が息づいている。それらが現実として失われた後の殺伐とした世界であっても、私たにはひっそりとその世界を生きていた記憶が存在しているのだ。


 ゲーム『すばらしきこのせかい』との関連性の考察

ゲーム『すばらしきこのせかい』

 最後の曲『the world end (with) you』は、2007年に発売されたゲーム『すばらしきこのせかい」の英語版のタイトルから引用されている。
 渋谷を舞台にした本作はビジュアルやサウンドという点においてY2K的な世界観が直接描かれているようなゲームになっており、死神がゲームマスターとなって、命を失った主人公のネクは生き返りを賭けて戦い、参加料として参加者の大切なものを捧げる。一周目のゲームでネクは大切なものとして記憶を奪われた状態で争っているという物語になっている。ネクのキャラクター設定として、他人と関わりを極力持たないようにするため、ヘッドホンを常に身につけている。更にヒロインの首を絞めるシーンなど、セカイ系の始祖である『新世紀エヴァンゲリオン』のオマージュ要素を多く含んでいる。
 また音楽がモチーフになっているゲームなだけあって、キャラクター名としてビイトやライムというように名前として割り当てられていて、死神サイドはノイズを模しているという点も本作の音楽的要素とも通ずる。
 このアルバムでは「君」との決別がテーマになっている。僕と「君」が例え一緒になれなかったとしても、グリッチにまみれた感情を越えて「君」の存在を記憶を通して再生し、現実の別れを受け入れながら、街へと歩み出していく。
 『すばらしきこのせかい』では記憶がないネクが、物語を通して関わるヒロインや人間同士の関わりそのものを「大切なものだ」と認識した後に失い、最後には現実の世界で再会するというポジティブな形で幕を閉じる。

 両者は最後に現実の世界である外側へと戻っていくという点で共通項が存在する。現実を受け入れるという点では重なっているのだ。

 しかしながら『終末colletion』は人間関係的な教訓も、現実のポジティブな肯定を描いてはいない。現実のネガティブな肯定であり、それこそがデジタルの音像の中で叫びとなって割り切れない感情を描き出し、私たちを揺さぶる。
 それは『すばらしきこのせかい』のタイトルの引用元になっている、ルイ・アームストロングの『What a wonderful world』の歌詞のような、年齢を重ねた先にある、超然とした境地の世界の肯定とも異なる、叫びにも似たあまりにも生々しい感情を素直に作品に落とし込んだその感性がこれからどう変化していくか、ダンボールの覗き穴から耳を傾けつつ期待したい。


 最後に

 最近lilbesh ramkoさんは『haiakai:pop』のMVを出していて、映画『学校の怪談』の要素をめっちゃ感じて懐かしかったうえに、映像として最高なのでまだ観てない方は観てください!もちろん『haikai:pop』が収録されている『徘徊collection』も最高なので是非!


 https://open.spotify.com/intl-ja/album/14LV4XL3low1elMX8RbjAB?si=2_aEDS68Q266_S7G-M0xCA


 今回この文を読んで『終末collection』を改めて通して聴いてみると、聞こえ方が変わるかもしれないので、そういう楽しみ方ももっと広まると良いなと思っています。
 まとまっていない文章をここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。次回はもっと良いものを描けるように頑張ります。

 次回は魚豊先生の『ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ』を取り上げたいと思います。乞うご期待!




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