『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』 DC社会の終わり(第三批評 常森裕介)
ジョーカーの武器は想像力である。そして、想像力は無限ではなく、枯渇する。そんな当たり前のことを観客は忘れている。
なぜなら、ジョーカーは守られていたからである。誰に守られていたのか。DCユニヴァースという名の社会に守られていたのである。DCユニヴァースは、DCコミックのキャラクターによってのみ構成されていたわけではない。DC・マーヴェル映画のファン、DC・マーヴェル映画を作り続けたスタジオ、DC・マーヴェル映画にスクリーンを明け渡した映画館によって成り立っていた。
『ジョーカー』の1作目は、その泥臭さと狂気において、他のDC・マーヴェル映画とは異なっていたし、上記ユニヴァースの一部とはみなされていなかったかもしれない。しかし、作中でウェイン家と接続し、かつバットマン誕生の重要な場面が描かれる点で、バットマンの悪役としての役割を逃れることはできていなかった。そのため筆者には、バットマンを苦しめたあの悪役が、いかなる経緯で誕生したかを、いかにも深刻そうに説明した作品にしか見えなかった。
本作は、ジョーカーがジョーカーでなくなっていく過程を描く。彼をDCユニヴァースから解放するにはその道しかない。ジョーカーでなくなったジョーカーは、DC・マーヴェル社会には必要ないものだからである。
本作は、歌を、彼が想像力を維持し、妄想を膨張させる手段として使うと同時に、彼から想像力を奪う要因として位置づけている点である。本作において、歌は彼が他者(の外観をもつ恋人)とつながる手段となっている。彼が歌い出すと、周囲が興奮状態になり、彼自身も「舞台」に復帰することができる。
ただしここで注意すべきは、彼を高揚させる歌の多くは、ガガによって歌われているということである。本作において、ホアキン・フェニックスとレディー・ガガの歌唱力の差を瑕疵と捉えることもできる反面、彼の想像力が、自身の拙い歌声ではなく、恋人の美しい歌声に支えられ、支配されていると考えれば、二人の歌唱力の差は本作にとって必要であったといえるだろう。
彼女の歌はもう一つの機能をもっている。それはDC社会が発する声(快哉)から彼を解放することである。名もなき群衆の声が、彼に力を与えたことは間違いない。しかし、終盤彼は彼を支えてくれる群衆の手を振りほどき、一人で走り出す。彼女の歌は、彼を孤独から救い、彼をDCユニヴァースから解放し、同時に彼の武器であった想像力を奪ったうえで、彼を一人の人間にしたのである(それこそ1作目の真の目的ではなかったか)。
いかにも平凡な検事補として登場するハービー・デントを見た時、観客は気づくのである。ここはもうDC・マーヴェル社会の外である。DC・マーヴェル映画の不振を殊更に指摘せずとも、ジョーカーも観客自身もやっとDC・マーヴェル社会の住人であることを終えられるのだと。
画像は公式HPより
大ヒット上映中!映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』オフィシャルサイト (warnerbros.co.jp)