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『憐れみの3章』実は途中で終わっていた(第三批評 常森裕介)

「ハッピーエンドじゃなきゃヤダ!」第3回

映画を観終わった時、あの場面で終わっておけばよ良かったのに、という感想を抱くことは少なくない。ただ個人的には、この場面で終わると最高なのではと思ったところからどんどん展開していく映画の方が傑作が多い印象がある。

一方、実はあの場面が「終わり」だったのでは、と思うことはあまりない。なぜならエンドロールが流れたところが終わりであり、エンドロールの後にちょっとしたオマケがあっても、画面が消えて場内が明るくなった時点が終わりだからである。

本作は、どこで終わっていたのか分からない作品である。


本作は、三つの短編から成り、各短編で同じ役者が異なる役を演じる。そのため、連作短編のようにも見える。通常の短編集であればどの作品から読んでも良いですよ、というものもあるかもしれないが、連作短編の場合、最後の作品に仕掛けがあることも多く、前から順に読むことを求められる。
であれば、本作も3つめの短編が終わりなのだろうか。どうもそうは思えない。


循環構造なのか。そうだと言えなくもない。
あるいは(同じ役者が生まれ変わって別の世界を生きる)輪廻転生なのか。そうかもしれない。ただ輪廻転生の場合、前の生をどのように生きたかが重要になる(何度生まれ変わってもカスみたいな生なら順不同かもしれないが)。


筆者は、1本目の短編のエンディングが本作のエンディングだと考える。言い換えれば、場内は暗く画面の中では映画が続いているが、実は途中で終わっていたということである。


本作のテーマは、宣伝でも謳われているように、愛と支配である。愛による支配、支配を愛と捉えること、愛が支配を打ち破ること、両者には様々な関係を想定し得るが、愛と支配は監督であるヨルゴス・ランティモスが一貫して追求してきたテーマでもある。


1本目にはこのテーマが始まりと終わりの間で一貫して描かれ、完結している。1本目の三人がソファーで顔を寄せ合うシーンの他に、本作全体のラストシーンとしてふさわしい場面はあるまい。


だが、真に重要なのはどこで終わっているかということそれ自体ではなく、終わった後にまだ物語が続くということである。あるいは、短編集において3本目を読んで完結した後に、前の2本を読むことの意味である。
これは本作の構成やテーマとも関わる。本作の登場人物は、既に終わったことを、いつまでも続けることで、悲惨な末路を迎える。2本目では、死んだと思った妻が生きて帰ってくるし、3本目では、死という終わりそのものを否定して死者を蘇らせようとする。その他本作では、傍目にはそこで終わりだろうという人生の場面で、主人公たちが生を継続しようとすることでより最悪な展開に至る。


なぜ、本作の登場人物たちは終わるべき場面で終わろうとしないのか。それは、終わりに抵抗することが、支配から脱却する唯一の道であり、自ら終わらせることが、愛を提示する唯一の方法だからである。
逆に言えば、(知らない男性をひき殺すという)終わりをいったんは拒否しながら、結局必死に同じ終わりを取り戻そうとする1作目の主人公は、完全に支配された状態であり、1本目の穏やかなラストシーンは地獄そのものである。


実は1本目で終わっていた本作は、2本目、3本目で終わることそのものに抵抗する。だとすれば、画面が消え、場内が明るくなった後も4本目、5本目が続いているのではないか。実は終わっていた生に対する抵抗は、終わりを回避することしかないのだから。

画像は公式HPより
憐れみの3章 | Searchlight Pictures Japan

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