『ゴンドラ』-目は口ほどに
「アジアのまなざし」第1回
イヴァとニノはジョージア南部の小さな村で夢を追い、あるいは挫折して窮屈な思いを抱えている。彼女たちはゴンドラがすれ違うたびに、視線を交わす。その視線の交錯は、ゲームとなり、音楽となり、セックスにもなる。
ゴンドラがすれ違う時に、もう一方のゴンドラとコミュニケーションを取ろうとする者は少ない。せいぜい大きな声で名前を呼ぶくらいだろう(本作でも感嘆の声は発せられる)。だが彼女たちはゴンドラに乗っている時に最も生き生きと気持ちを交換する。なぜなら、ゴンドラから降りると、彼女たちは途端に言葉を奪われ、視線を遮られる秘めている。ゴンドラの装飾がどんどん派手になっていくのは、言葉で説明しないからである。言葉で語ると、表現は言葉で語ることのできる範囲に収まってしまう。視線は、意志の強さを直接伝えることができる。次、自分はもっとすごい飾りつけをするぞ、と。
言葉を使わないことで、彼女たちは自由になる。言葉がなくとも、チェスがあり、バイオリンがあり、肉体がある。言葉が支配していた世界、男性の年長者が支配していた世界から自由になるためのツールが、小さな村にもたくさんある。
彼女たちは村を去る。ここで考えるべきは、なぜ二人で村を去る前に、ゴンドラで何度もすれ違う必要があったのかということである。もしかすると、彼女たち自身も、彼女たち自身の言葉から解放される過程を必要としていたのではないか。
彼女たちが去った後、子ども達がゴンドラに乗る。子どもたちはまだ十分に言葉を獲得していない。子どもたちは言葉を獲得し、黙ってゴンドラに乗るようになるのだろうか。そして、村を去った彼女たちは言葉によるコミュニケーションを再開し、自由な時間を忘れてしまうのだろうか。おそらくそうなるだろう。二つのゴンドラの隔たりが生み出した特別な時間がこの映画なのだから。
画像は公式HPより
映画『ゴンドラ』公式サイト