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劇評 お布団『アンティゴネ アノニマス-サブスタンス 浄化する帝国』(第三批評 常森裕介)

「ハッピーエンドじゃなきゃヤダ!」番外編①

リビングデッドの名のとおり、ゾンビは死んでいるけれども生きている、そのような存在である。そのため、ゾンビが死ぬ前の人格を残しているかという問題は、物語によく使われてきた。

本作は、役として死んだとしても、役者として生き返り、さらに再び役を演じることで役として生き返ると言う演劇の身体性の不条理を、上記ゾンビものの「理屈」と重ねることで、設定としての地獄ではなく、観客の目の前に(あるいは客席も含めて)地獄を創出しようとする試みである。

本作のポイントは、役者が生き返る前と生き返った後(今この瞬間)の両方に身を置いている点にある。劇中で村上春樹の言葉(記憶と記憶の衝突に関するもの)や、有名なラインホルト・ニーバーの言葉が引用されるが、いずれも役者を少し前の過去と少し後の今との間で引き裂くものである。

このような矛盾した身体を表現することは容易ではない。なぜなら、いかにも演劇的に「生き返った!」といったセリフで表現すれば、単に過去の記憶を伴う今の「私」になってしまうからである。過去の「私」の身体と今の「私」の身体の間で自らを引き裂くためには、役に没入することなく、役者自身を結節点として残し、かつ結節点として残した身体を観客に曝さなければならない。そのうえで、器用ではない演技を何度も観客の前で試す必要がある。これは役者としての身体を隠し(役になり切り)器用な演技で完成品を提示する「芝居」とは異なるものである。

筆者は、本作が提示する地獄とはいわゆるループものに近い状態だと考えた。仮にオイディプスらが何度も蘇っても、同じ行動を繰り返すだろう。ループものでは、登場人物たちがループの構造に気づき、自ら行動を変えたり、ループを生じさせる機構を壊したりするが、そのようなループ構造からの脱出は結局作者が考えたものであり、作者がループの環を組み替えただけである(こう言ってしまうと元も子もないが)。「神話」もその構造が維持されたまま何度も語られ直す点ではループものと同様である。

このような主体である作者や自律的な神話を壊す可能性をもつのが役者の身体である。ただし、前述のように、そのような破壊に至るためには、役者はループを生きる快楽を捨て、上手く演じられない者、中途半端にしか役を生きない者になる必要がある。そうすることで、記憶を身体を作者や神話(運命)から奪い返す必要がある。

もうセリフがなくなったと言った二人の役者がどこか誇らしげなのは、もう一度役を生きることを拒み、自らの意思で役(生)を終わらせたからであろう。

画像は「お布団」公式HPより
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