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『HAPPYEND』 ハッピーエンドという名の映画(第三批評 常森 裕介)

本作のラストを見て、『キッズ・リターン』だ、と思った(同じような印象を受けた人は少なくないのではないか)。音楽のせいだけではない。過去と未来が今で交わるという日々連続して生じる衝突と交錯が、奇跡のように感じられたからである。


終わったのか、という問いに、まだ始まっていないと答える『キッズ』のラストシーンに対し、本作のラストシーンは、まだ始まっていないにも関わらず、既に終わったのではないかという不安を感じさせるものである。


本作は冒頭で遠くない将来を描いた作品であることが示され、SF的な世界観も示唆されるものの、描出されるのは現在の日本である。正確に言えば、少し前の日本である。例えば監視装置に対する忌避感は、現在のそれではなく、パノプティコンを想起される上記装置名称もちょっと古い。

だが、本作が興味深いのは、現在の若者の身体を用いて、少し前の未来を、少し先の未来として描いている点である。単に過去の教訓を生かすべきとか、未来は暗いとかではなく、今がどこにあるのか見失わせる点に本作の面白さがある。


学校生活を描いたエンタメの特徴は、終わりがあるということである。『キッズ』では、とうの昔に(学校生活の)終わりを経た二人が、学校のグラウンドに戻って来る。そこはかつて彼らの「今」だった場所であり、彼らが今いる場所である。学校生活は公的な仕組みによって年限を決められているため、若者の過去と未来を明示する舞台として選ばれやすい。登場人物が学校生活を逸脱する場合でも、(日本の)観客が共通してもつ学校生活や卒業の感覚を土台としてドラマが展開する。


本作は、日々の学校生活に社会の変化や自然災害のリスクと、それらの変化、リスクに対する権力側の振舞を見せつける。本作における社会運動や権力側の対応の描き方は、必ずしも十分とは言えない。だが最も重要なことは、社会のうねりには始まりと終わりがなく、将来へ向けた主張が飛び交う中で、しばしば過去に引き戻されるということである。社会には「今」がないのである。逆に言えば、フィクションで描かれる学校生活に過去と未来と今があるのは、公的な制度や権力が、特定の成長譚を設定するためには、行事等で単線的な時間を意識させるからである。


本作の主人公らは、ルールに縛られた学校生活を拒みつつ、学校生活を取巻く社会に溶け込むこともしない。なぜなら、学校と社会は単線的に結ばれるものではなく、時間軸の混乱の中で混ざり合うものだからである。


本作を友情を軸とした物語と捉えることは誤りではないだろう。そうであるとしても、主人公二人が疎遠になるのは、感情的な行き違いからではなく、違う今を生きているからである。「今を生きる」とは、決して輝かしい生を生きることを意味しない。前に進むこともできず、戻る場所も分からず、出発点を失うことである。学校(生活)に背を向ける主人公らの生き方は、このような時間間隔を露わにするからこそ、尊い。

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