『グレース』ー少女は自然を解釈する
「アジアのまなざし」第4回
自然は、人間がその中にいることで解釈され、風景となる。父と娘が乗った赤い車がコーカサスの遠景に現れると、荒涼とした自然が、荒涼とした風景になる(「荒涼とした」という印象も一つの解釈であり、自然はそこにあるだけである)
本作にはクロエ・ジャオの『ノマドランド』を想起させる場面がいくつかある。また、旅の一時的な締めくくりを、ある種の帰郷に求める点も共通している。
しかし、本作が『ノマドランド』と異なるのは、本作の親子は風景を見ておらず、風景の一部になっている点である。『ノマドランド』は定年し、初めて旅に出る女性が主人公であり、同じ荒涼とした風景であっても、そこには彼女の目線と、驚き、荒んだ内面が反映されていた。
これに対して本作の親子は、長い旅を経て、風景への驚きは消え、どれほど移動しても、旅先を日常に変えてしまう。誰に出会っても、心乱されることなく、戦争の影を横目に、官吏による暴力も受け流す。
また、本作が『ノマドランド』と異なるのは、少女を主人公に据えた点にも求めることができる。父親にとっては日常と化した移動は、彼女の成長を伴うことにより再び「旅」となる。車の速度は相変わらずでも、彼女自身が加速するのが伝わってくる。オートバイで追ってくる青年はそのちょっとした手助けをするにすぎない。
彼女は道中で写真を撮りためることで、自身の視点を形作っていく。彼女が行きたいと言っていた海は、父親から見れば、ただの暗い海であろう。だが彼女の目にはどのように映っているのか。観客は、彼女の目で海を見ることはできないものの、風景の一部であった彼女が、自然を見て解釈し、自らの目の中に収める姿を見届けることができるのである。