高校野球への憧れとサッカー
今年も高校野球の地方予選大会が始まった。
いや、もうすでに始まっている。
私は元高校球児である。
小学校低学年から野球の魅力に取りつかれ、高校野球はもちろんのことプロ野球阪神タイガースの大ファンになってしまったのだ。
そしていつからか『高校野球で甲子園に出場し、将来は阪神タイガースの4番バッターになる』という子どもならではの大き過ぎる夢を描いてしまっていた。
しかし、小学生のときは地元校区に少年野球チームがなかった。
ソフトボールであれば、校区で行う球技大会のソフトボールが夏休みにあったので、それに向けての練習をするくらいで、せいぜい2ヶ月くらいの期間だけである。
しかも、4年生~6年生までの3年間だけ。
野球を親に習わせてほしいと懇願したが、親は首を縦には振ってくれなかった。
その理由は、こうだ。
少年野球(リトルリーグ)のチームは隣の校区のその隣。
一番近くにあるチームでも2つ隣の校区にまで行かなくてはならない。
そのうえ毎回、親が練習に同行しなければならないという条件付きだ。
父は仕事。
母は車の運転ができないことから、『練習に同行する』ことが根本的に無理だということだった。
※警察白書によると、当時の女性の運転免許所持率は30%程度。母はペーパードライバーだったらしい。
結局、少年野球チームに入団することは叶わなかった。
そのかわり、地元校区で剣道を習わせてくれたのだ。(習いたいとは言っていないけど)
しかしながら、当然の如く剣道では満足ができないので、『少年野球をしたい』のおねだりをし続けた。
そうするとある日、「〇〇サッカークラブの申し込みをしておいたから、△△ちゃんと明日から一緒に練習行きよ」と母親の口から告げられた。
なに、なに、なに~⁉ 耳を疑った。
「なんでサッカーやねん!俺は野球がしたいんや!サッカーなんか行かへんからな!勝手に申し込むなや!」と猛反発。
次の日、近所の同級生である△△ちゃんが私を誘いに家までやってきたので、仕方なくサッカーを習いに行くことになってしまった。
今考えると、ここが『少年時代の分岐点』だったかもしれない。
もし、地元校区に野球チームがあれば親も間違いなく習わせてくれていたであろう。
でも、条件的に他の校区まで野球を習わせに行くことは親としても負担が大きい。
それでも野球がしたいと口うるさい息子。
だったら『地元校区でやっているサッカーを習わせることで、野球をあきらめてくれるかもしれない』とでも思ったのだろうか…
近年は、少年たちにとって野球よりサッカーの方が人気がある。
今から40年くらい前の私たちの時代では、サッカーはどちらかというとマイナーなスポーツであった。
野球の方が断然、人気があったのだ。
しかも、自分は野球がしたい。
将来の夢は、『甲子園出場と阪神の4番』という夢を描いていた少年にとっては、どうしても野球以上にサッカーを好きになることはできなかった。
練習では、ずっとやらされている感覚しかなく、上手くなりたいとか試合に勝ちたいというような向上心を持つことはできなかった。
それでも、一応レギュラーでは試合に出ていたが、ポジションはディフェンス(サイドバック)で固定だった。
試合で得点を狙いに行くようなポジションではなかったが、特段それ以上の欲も湧いてこなかった。
つまり、心はいつも『野球がしたい』だった。
サッカーは辞めたくて仕方なかったのだ。
そもそも、なぜサッカーではなく野球なのか。
当時、サッカーはプロリーグがなく、今ほどメジャーなスポーツではなかった。
一方、野球はプロ野球から高校野球まで人気が高く、TVやラジオ中継を頻繁にしていた。
子供会の球技大会も男子はソフトボールと決まっていた。
どうしても、野球に興味を持つ条件がそろっていたのは事実である。
そんな中で、半ば無理やりサッカーを習わされていた私が中学生になったら、『今習っているサッカーも剣道も辞めて中学校の部活動で野球をする』と決定させる出来事があった。
それは、1983年の夏の甲子園大会を現地で初めて観戦したことだった。
PL学園と高知商業の試合を生で観戦して感動したのだ。
甲子園球場に行くのも初めてで、球場の雰囲気に大感動!
そして、あの清原選手の特大ホームランが外野席で見ていた自分の横まで飛んできたこと。
すべてにおいて、高校野球っていいなと心に深く印象付けられたのであった。
続きは次回…