最後のひとくちが食べられない2ー老師と私のデスゲーム
最後のひとくちが食べられない私は時を経て
大学生になり、同級生たちと中国に短期留学した(2000年代前半の話だ)
到着後、大学で教鞭をとっていた先生が留学先の提携校の食堂で夕食をごちそうしてくれるという。
個室に通された
おおー、本場の円卓だぜ
ひゃっほーい、テンションは爆上がりだ
10数人が座れるかなり大きな円卓にも関わらず
料理がドンドコ運ばれてくる
皿はもう円卓からはみ出している
我々は『出されたものは残さず食べろ』世代
真っ只中を並走してきた同志だったので、
(同志とはいわゆる中国でいうトンジーね、
イデオロギーや志を同じくするもの、
仲間ってことです、皮肉だけど)
とにかく食べた、食べまくった、
大皿が次々と消えていく
やっと円卓の余白が見えた
しかし大皿を全員でやっとの思いで完走しても
先生はメニューを見てまだ小姐(店員さん)に
注文しようとしている
その様子を見て
『先生、もう食べられません、残しちゃう』
同志のひとりが口をついた
先生は笑顔で『中国ではお客さんをもてなすときには食べきれない量を出すんですよー、全部食べちゃうってことはお客さんを満足させられてないってことだからキニシナイデクダサイ』
えっっっっ
先ほど提供されたものはヨモツヘグイだった?
(ヨモツヘグイとは、あの世で生きるためにあの世のものを食べること、千と千尋で身体が消えそうになった千尋にハクがなんか食べさせたよね)
我々は『出されたものは残さず食べろ』の申し子だったが、ここは別次元だったのか
我々は『食べきる』を礼儀として尽くそうと
死に物狂いにレースを走ったが
先生としては面子を賭けた『食べ残させる』を
目的とした苛烈なレースだった
(中国人にとって面子メンツは非常に大事な概念だ。ただの世間体だけではない、自身の威信と尊厳、全てを賭けてでも守るべきもののように感じる。まあ、よく潰されてもいるんだけど。面子に関する熟語ならいくらでもあるし小学生でも面子の話をする)
老師(北京語で先生は老師と呼ぶ、ラオスー)の
どこか退廃的放蕩感をまとう甘い囁きを聞いて
『退廃を誘ったアヘンのことは抹殺するのに
食べ物は蕩尽してもいいんだ』などと
(暴食は7つの大罪のうちの1つだろ?)
私は別のことを考えていたが
自我つよつよな同志たちは抗っていた
戦後日本教育を受けたプライドが聴かせる
『させー!させーー!!』という声に
突き動かされる者も、
ためて巻き返しを図る者も、
ディベート(討論)という西洋馬に再騎乗し
老師と対話し解決を図ろうとする者もいた
私?
私は早々に一杯だった
簡単にいえば諦めていた
ここは中国だ
『入鄉隨俗(郷に入っては郷に従え)』
というではないか
(繁体字が生理的に好きなので繁体字で書きましたが、行ったのは簡体字を使う中国です)
もうお手上げなのだ、
当時教師は中国で稼げる職だったようだし、
相手は手持ちのカードはいくらでもある
老師は日本語を流暢に操り
日本文化にも精通していたが
外見も中身も純然たる中国人であり
当地は中国だ
老師は無慈悲にカードを切っていくし
こちらには起死回生の一手はない
老師はたった1人なのに我々は四面楚歌だ
始まる前はあんなにハイテンションだったのに
最後にはデスゲームの様相を呈していた
もちろん
老師は笑顔で仕掛け、そしてまくった
終わってみれば老師の圧倒的勝利であったが、
私にとっては光明でもあった
『食べ残しても許される世界がある』
むしろ『食べ残すことが礼儀』
私の唱えた新興宗教とは異なるストーリーを持つが目に見える現象は同じだ
※ちなみに現在では『モッタイナイ』とかSDGsの観点から中国でも食べ残すことは悪となり2021年には『反食品浪費法』なるものが法制化されたそうだ。
悪と見なされたからには、札束(金銭)でしばくというのがさすが文化ブッ壊れの損得勘定以外では自我を曲げない人民らしくて粋じゃないか。
もう食の蕩尽が許されない世界になったんだな。あれだけ戸惑った過激で駆け引きを許さないポトラッチが懐かしくもある。
蛇足の蛇足でもあるが中華圏では比較的簡単に食べ残しのお持ち帰りができるので『打包(ダーパオ)』や『帶走(ダイゾウ)』と言ってみてほしい