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回転焼肉

 この焼き肉店は、回転するレーンの上に載って肉が運ばれてくる仕組みのようだ。回転寿司ならぬ回転焼き肉だ。人間は魚に飽き足らず牛も豚も鶏も、回すようになった。
 最近は何でも自動化する店が増えた。注文はタッチパネル、配膳はロボット、会計は精算機、などという具合に、店員の接客をほとんど必要としない店も多い。全国に支社のある製薬会社に入社して以来、地方勤務が続く太一は、たまに都会へ出て来てくると、あれもこれも自動化していく飲食店に驚いてばかりいる。別に生身の人間の接客が恋しいというわけでもないが、ロボットで運ばれてくる食べ物を見ていると、餌みたいだなと思うことがないわけではない。だから、こうして幼馴染み三人で集まる時ぐらいは、回転しない焼き肉でもいいんじゃないかと言いたかった。ただ日にちの設定から店選びまでの一切を隣に座る龍之介に任せてしまったのは自分なので、何も言うことはできなかった。
 目の前に座る佑季も含め三人で集まるのは盆か正月で、今回みたいにゴールデンウィークに集合するのは珍しかった。三人のうち地元に残っているのは龍之介だけ。佑季も東京で働いているのでなかなか地元に帰ってこない。それでも盆や正月が近づくと、誰からともなくグループラインを動かす。誰からともなく、と言っても大体は太一か龍之介で、今回みたいに佑季が言い出しっぺになるのは珍しかった。
 なぜ佑季が二人に声を掛けたのかは、駅前で集合してすぐに分かった。彼女の左手の薬指に光るものを見つけたからだ。今日はそういう日か、と太一はすぐに思った。店に入ってからも佑季の左手が気になって仕方がない。彼女が左手を伸ばしてタレやレーンの上の肉を取る度にきらりと光る指輪が目に入る。それなのに彼女は二人に何も言ってこない。指輪の存在を気付かれていないとは思っていないだろう。言いたいのなら、早く言ってほしい。
 佑季に彼氏がいることは既に知っていた。東京で再会した高校の同級生だ。インスタグラムの投稿でお互いの最寄り駅が同じであることがわかり、飲みにいったのがきっかけだという。大学は●×大で、今は都内で自動車機器メーカーに勤めていることも知っている。大学名も会社名もほとんど聞いたことがない。小学校の卒業文集に大金持ちと結婚したいと書いていたことは、もう忘れてしまったのだろうか。
 お前が聞けよ、と目で訴えるように龍之介を見るが、彼はナムルの三種盛りをバランス良く自分の皿に移すことばかりに集中していて、こちらを見てくれない。
「何か報告することあるんちゃうん」
 しびれを切らした太一は佑季に尋ねる。最初に頼んだ生ビールがもうなくなりかけていた。
 俺も気になっててん、と龍之介がすかさず言うので腹が立つ。
「ごめん、何かタイミング逃しちゃって」佑季は左手の甲を二人に向ける。婚姻届は一か月ほど前に提出したらしい。その時市役所で撮った写真まで見せてくれた。
「どこでプロポーズされたん。ディズニーランド?」龍之介が聞く。
「ちゃうよ。レストラン」
「高いとこ? あ、高いっていうのは値段じゃなくて、地面からの高さね」
「夜景が見えるとこ。デザートを食べてる時に、彼がパカッて」佑季が指輪が入った箱を両手で開ける仕草をする。龍之介もその真似をして笑っている。
「どんなところが、好きなんですか」龍之介がマイクに見立てた握り拳を彼女に向ける。
「あの人ね、スマホの暗証番号忘れたりするんよ。エレベーターとエスカレーターも良く言い間違えるし、漢字の『雄」と『雌』も区別がついてない。そんな人いんのって感じ。一緒にいて飽きないんよ」
 太一は網の上のカルビをトングでつつく。いや、これはロースだったかもしれないと思いながらつつく。
 太一と佑季は同じ病院で三か月違いで生まれた。同じベビースイミングに通っていたし、二人で砂山にトンネルを開通させた回数は数え切れない。小学校に入ると、勉強ができたのは太一の方だった。三年生で初めて同じクラスになって仲良くなった龍之介と遊んでばかりいても、成績は下がらなかった。なぞなぞの類いも得意だし、トランプもオセロもクラスで一番強かったと思う。みんなが一目置く存在だったと思うけれど、佑季だけは太一を特別扱いしなかった。公園で跳ねるように遊んで、疲れたら母の元で甘いりんごやぶどうのジュースを飲んで、最後にはどちらかの家で二人して眠っていたあの頃と変わらず接してきた。太一の方も、トンネルを開通させたときの、冷たくて砂まみれの二人の手が触れあう瞬間のことをずっと覚えていた。
「大学どこなんやっけ、相手」気付いたら太一はそんなことを聞いていた。
「●×大やで。言ってなかったっけ」
「ああ、あそこか。綺麗よな、あそこ」つまらないことを言った、と自分でも分かった。太一の出身大学の偏差値には到底及ばないであろうその大学名を聞いて、自分はどうしたいのだろう。
「あんまり賢いところちゃうよ。太一みたいに勉強できるわけちゃうから」
「別に俺もそんなやで」
 太一は偏差値の高い大学を目指すことは当たり前だと考えていた。毎日学校に通うこと、将来役に立つかもわからない五教科を勉強すること、年に一回の一発勝負の試験で高得点を出さなければ希望する大学に入れないこと、そのどれをもまともに疑ったことがなかった。そういうのを疑って立ち止まるのは馬鹿がやることだと思っていた。その結果入社できた今の会社にも、同世代で比較すれば明らかに多い手取りにも、満足し切っていた。けれども、そうした学歴や肩書をひけらかすのがいかに品のないことかを知っている。そうした品のない行為を好きな人間が主にネット上にはたくさんいるし、「三高」などという言葉が昔流行っていたこともどこかで見た。でも自分は誰かを会社名や年収で評価する人間ではないと信じている。自分がたぐり寄せた人生を誇りに思うことと、それを誰かに自慢することは全く別のことだ。だからこそ今自分の中に渦巻いている下卑た感情に、自分自身が一番驚いていた。
「佑季は相手の学歴に拘ると思ってたけどな」龍之介が網の上の焦げかけたカルビを回収しながら言う。太一が網の上に置き、育ったら食べようと思って忘れていたカルビだ。
「そういう時期もあったわ。自分より頭の良い人じゃないと無理って思ってた。話が面白くて、自分にない知識を持っている人がいいって」
 太一はだんだん、どんな顔をしてこの話を聞けば良いのかわからなくなる。
「でもこれまでの彼氏、正直ろくなやつおらんかったよな。佑季の友達と浮気してた奴とか、毎日おやすみとおはようをLINEしないとキレる奴とか。後どんなんいたっけ」龍之介が指を折りながら言う。
 佑季は呆れたように笑い、塩タンを頬張る。彼女は脂身の多い肉が食べられない。卵の白身も、イクラや明太子のような粒々した食べ物も嫌いだ。
「言わんといてよもう。でもそういう変な男と付き合ってた時期があったから、今の人選んだのかも。二十代のうちに結婚したいとは思ってたし、一年以上続いた初めての彼氏やからさ」
「結局は優しいとか浮気しないとか、早く帰ってくるとか、そういうのが大事なんかもな。勉強になるな、なあ太一」
 龍之介が太一の右肩を叩く。伝わってくる熱が鬱陶しく太一はああうん、と適当に返事をする。追加で頼んでいたロースがレーンに乗ってやってくる。やはり餌みたいな感じがしてちょっと笑いそうになる。こんなところで、と思う。肉がぐるぐる回ってる、笑ってしまうような焼き肉店でこんな話を聞かされなくても、と思う。これは罰だと思った。いつかこの報告を受ける日が来ると覚悟していたつもりだった。今年は既に友人の結婚式に二度出席していたし、子供が二人いる後輩だっている。でも目の前で嘘みたいに明るい白熱灯に照らされた左手の指輪が目に入ると、うまく言葉が出てこなかった。職場の愚痴、最近見た映画、何度も話している小学校の思い出、そのどれも、話そうとした瞬間からしなしなと朽ちていく。代わりにつまらない悪態ばかりがぶくぶくと膨れあがる。
「式、するから出てな。東京になっちゃうかもしれんけど」
「行くよ、どこでも」太一は精いっぱい元気な声で嘘を言った。「親族の席に座ってもええぐらいや」
「それでも太一なら違和感ないかもね。うちの両親も良く知ってるし。兄、いや弟みたいな感じやもんな」
 太一はへらへら笑うだけだった。これは罰だと思った。のこのこ式に出ていったとして、佑季は新郎に何と紹介してくれるのだろう。
 レーンに乗ってやってくる肉はどれもあまり美味しくなくて、網の上には炭になりかけた肉が残ったまま三人の箸は止まってしまった。そろそろお開きかという空気を察したのか、佑季は空になった皿を重ね、店員が回収しやすいよう通路側にまとめていく。テーブルに飛んだタレも、自分のお手ふきで丁寧に拭き取っていく。大学の時に居酒屋のホールでアルバイトしていたから、癖になっているのだ。太一は氷が溶けて薄くなったレモンサワーを飲みながらそれを見ていた。きっと彼氏の前でも同じような動作をして、驚かせたことだろう。案外こういうことが結婚の決め手になったりしたのかもしれない。
 席を立とうとしたところで、佑季が「あっ」と言ってスマートフォンを取り出した。
「何」と太一が聞くと、「いや、ここの店をLINEで友達追加したら三百円引きになるって店員さんが最初に言ってたやん」と言う。太一と龍之介がその様子を黙って見つめていると「いや、二人もやってや。三人で九百円引きやで」と急かしてくる。確かに店員はそう案内していたような気もしたが、太一は聞き流していた。一度友達登録をしてしまうと、店のクーポンやら新商品の案内やらが来て鬱陶しいので、いくら安くなるからといって、極力この類いの勧誘には乗らないようにしていた。
 太一は持っていた長財布をそれとなく開いて一万円札が十枚ほど入っていることを確認し、「おごるからもうええやん。めんどいし」と提案した。
「なに、結婚祝いみたいなこと?」
「そう、それ。たまにはええやん」
「いやええよ」
「なんでや、おごらしてくれよ」
「いや、ほんまにほんまに」
 佑季は太一の財布を遮るような仕草をする。「太一の金は太一のために使わんと。あたしに気遣わんでええねん」
 そこまで言われると払うこともできなくなるので、仕方なく友達登録をする。社会人になってから、こういうことをしなくなったなと思う。もう多分二度と行かないであろう店と「友達」になるのも妙な話だと思った。
 きっちり割り勘で会計を済ませ、店の外に出た。二軒目三軒目とはしごするつもりで来たが、そんな気分でもなくなっていた。
「人妻やし、もう会えへんくなるん?」龍之介が佑季に尋ねる。
「そんなことないよ。そんなこと言わんといてよ」
 三人の中で唯一車で来ていた太一は、二人を送ることにする。昨年思い切って購入したルノーの赤いルーテシアだ。円安で輸入車は値段が上がっているとディーラーから聞いていたが、待っていても状況が好転するかはわからないので、五年ローンで買うことにした。初めて車を見た二人はおお、と声をそろえる。別に欲しかった反応ではない。生意気に見えないように選んだ車だ。助手席には龍之介、後部座席には佑季が座る。一人で運転する時に聞いていた音楽は、気付かれないように停止させておく。この車は静かに走るということを改めて意識する。
「式はいつやんの」龍之介がに聞く。
「来年の今頃かな、多分」
「予約とか、してへんの」
「まだ、でもそろそろしなきゃねって話はしてるよ」
「やるなら東京か」
「そうかもね、二人とも来てよ」
「でも新婦が男呼んだらあかんのちゃうん」
「それはそうやけどさあ、他に呼ぶ人もいないしさ」佑季の声は尻すぼみになる。
 太一は黙ってハンドルを握っている。佑季の実家の場所は案内されなくても覚えている。前を通るたびにそわそわしていた一軒家だ。小学校3年生頃からずっとそわそわしていた。少しふくよかで品の良い佑季の母を思い出す。
 家の前で車を停める。ありがとね、と手を振りながら佑季は車を降りた。太一はおう、と小さく返すだけで、前を向いたまま彼女の顔を見ず、車をゆっくりと発進させた。
「テンション低すぎ」少し走ったところで龍之介が言った。
「そう見える?」
「最初から。お前が佑季の指輪見つけたであろう時から。ずっとしゃべらへんし。しゃべたと思ったら『大学どこなん』てマウント取るみたいなこと言い出すし」
「そんなつもりちゃうかったんやけど。でもやっぱそう感じたか」
 自分でも感じが悪いとわかっていた。
「俺はお前に言ったことあると思うけど。『どうしたいん』って」
 大学生の頃、二人で酒を飲んだ帰りに、そんなことを言われた記憶がある。
「でもお前、『そんなんちゃうから』って言ったよな」
「うん。言ったな。言った。そんなんちゃうねん、ほんまに」
 太一はハンドルをぎゅっと握る。
「なら落ち込むなや」龍之介は窓の外を見ながら言った。
「今日だけ。明日から仕事やし」
 龍之介を降ろし、そこから一時間ほどかかる自宅を目指す。ふいにげっぷが出て、その臭いであの焼き肉屋を思い出した。
 
 一週間が経ち、佑季のことも別に思い出さなくなった。仕事はあらゆる悩みを彼方へ押し流してくれる。ワークライフバランスという言葉が流行っているが、人生を忘れさせてくれる「仕事」が、今の太一にはありがたかった。
 久しぶりの休みに近所のスーパーに隣接しているクリーニング屋に行く。アイロンが嫌いで、仕事で着るYシャツは、いつもクリーニング屋に出しているのだ。面倒ごとを取り除くための出費は、出費のうちに入らない。
 クリーニング屋は、髪の少し青いおばあさんが一人で切り盛りしている。髪が青いので太一はすぐにこの人を覚えたが、向こうは毎週のように来る太一のことを覚えているのかどうか判然としない。Yシャツに汚れがあると「あーあー」と少々大げさに反応するのが嫌いで、いいから黙って洗ってくれと思っている。
 ただ今日持ち込んだ三着に、目立った汚れはないはずだ。おばあさんはカウンターに置かれたYシャツを一着ずつじっくり確認する。別に汚れなどないはずだが、空港の出国審査のような居心地の悪さがある。
「来週の水曜、ね」確認を終えたおばあさんが言う。そしてレジを打ち始めたが、ふと太一の方を見る。
「LINE、あるよ」
「ライン?」
 おばあさんはレジ横の卓上ポップを指さす。「●×クリーニングライン誕生! 今なら友達追加で300円引き!」と書いてあり、QRコードも掲載されていた。
 はあ、と太一が言うと「得だよ、結構」とおばあさんが言う。いやいいです、と言いかけて、この間の回転焼き肉を思い出す。あれも同じ三百円引きだった。せっせとスマホを操作する佑季が目に浮かんだ。あのとき渋々追加した焼き肉店からはさっそくクーポンやら何やらが届く。鬱陶しいから消したいのだが、何となく消せないままでいた。
「どうする?」
 おばあさんは首を傾げて太一を見る。太一は動けなかった。あの日のことは、すぐにかさぶたになると思っていた。一週間もすれば綺麗に消えるはずだった。全身の力が抜けていくような感じがする。おばあさんの首は傾いたままだ。後ろの自動ドアが開いて、新たな客が入ってきても、太一は動けないままだった。

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