言葉に宿る陰影
好きな文章、には、たぶん、陰影がある。私の場合。水彩画のような、優しいタッチの文章。そのなかで一番細やかで好きなのは須賀敦子。自己管理がきちんとできている人の、端正で、それでいてさわやかな、たくさんの人に向けた、ぱきっと明るいトーンのいろんなビジネス書、自己啓発書。この世界の攻略本みたいで好き。マップを横に広げてくれる。縦は哲学と歴史、斜めは小説。そしてただひたすら私を笑わせてくれるカレー沢薫の文章。いろんなトーンの文章を読む。
ふりかけの裏に書いてある小話とかも気づいたら読んでる。あまりみんな読まないらしいことをちょっと前に知って驚いた。山口井上商店のしそわかめの裏「松陰先生も このわかめむすびを好んで 召し上がった のかもしれません」とかね。好きなんです、たぶん、読むことが。
でもそんな中で、やっぱり特に好きな文章には、陰影がある。たぶん、柔らかい心で生まれてたくさん傷ついたことがある人の、言葉や思想に宿る陰影。noteの記事読んでてもそう。いろんな記事を、いつも面白く読んでいるけど、影センサーが発動すると「!」特に注目してしまう。
傷ついても、思想も言葉も曇らない人もいる。太陽みたいな人。私の友達や母はそう。そういう人も、もちろん大好き。そういう人の影響で、私も明るいやつだと思われている。はず。だけどこと文章に関しては、私は陰影を好むようです。
高校生の時、『限りなく透明に近いブルー』を読んで、私は絶望した。私が読んだ初めての芥川賞受賞作品。これが、芥川賞をとる小説。だとしたら、私は小説家になれない、と、17歳の私は思ったのです。バカはすぐ極論を言いたがるっていうのは本当、的を射てる。恥ずかしー。でもそれから一生懸命村上龍と近代文学を読みました。そして春樹より龍派でした(といいつつ、『1Q84』以降は本を買うお金ができたので、村上春樹はリアルタイムで追いかけ、発売後はしっかり寝不足です)。
いま、ちびちびと『世界の終わりと、ハードボイルド・ワンダーランド』を読んで、終わりが近づくにつれ、自分が読みたい小説って、どんなものだろう、と考えます。影があって、でもきらきらまぶしくて、色彩が美しくて。
私が好きな小説は、文章そのものより、立ち上げた場面を映像として記憶しています。エンデの『はてしない物語』に、文章を読むときは匂いまで感じろ、とあって、以降私が物語を読むときの心得になりました。
私が自らの頭の中に、文字から立ち上げた、最も美しくて鮮やかな映像は、ガルシア・マルケスの『コレラ時代の愛』です(村上春樹『街とその不確かな壁』でも引用されてましたね)。フロレンティアーノ・アリーサと、フェルミ―ナ・ダーサの恋の断片を、私は光景として記憶しています。もし、神様が本当に、光あれ、と、言葉によって世界を作ったのだとしたら、私はマルケスも神様だと思います。
今年初めて薪ストーブに火を入れた。雨で冷えますね。なんか最近マインドが母からおばあちゃんに移行しつつあるのを感じる。顔を見たことない人でも、そんな関わり持ったことない人でも、とにかく皆さま、無事に過ごしてほしいな...的なことをぼんやり思うようになった。傷ついた心を抱えたあなたも、天真爛漫なあなたも、実は元気なように見せてるけど疲れてるあなたも、みなさま、暖かくしてお過ごしくださいませー。