初恋と、最後の恋のちがいを、ご存じ?/内田樹『困難な結婚』
表題は私の大好きなトーベ・ヤンソンの『ムーミン』シリーズ(マンガのほう)に出てくるセリフ。授業で笑いを取りたいときとかにたまに使う。何人かに当てて「ねえねえ、何だと思う?」という、思春期の子ども相手に地獄の大喜利をした後、「答えは、『初恋は、これが最後の恋だと思うし、最後の恋は、これこそ初恋だと思うもの。』だよ!うぇーーーい!」というと大体みんな笑ってくれる。
私はこのセリフを言い得て妙だと思っている。何を隠そう私は夫と出会って初めて「おお……人を好きになるってのはこういうことなのかい?」と感動したのである。かといってすごくロマンチックな何かがあったわけではたぶんない。
覚えているのは、私がタイで一人旅行をしているときに、暗証番号を3回続けて間違えて(タイ語で「あなた暗証番号間違えてますよ」的なことが画面に表示されていたのだと思うが、いかんせんタイ語がわからなかった)ATMにクレジットカードが吸収されて(拙い英語を駆使して泣きながら電話で問い合わせたらATMからカードが吐き出されるのは1か月後だと言われた)残りの5日間を日本円で7000円で過ごさなきゃいけないうえに夜食べたプーパッポンカリーが見事に当たりコンクリ打ちっぱなしの部屋で壁に向かって一人呻いていた時、せめてこの惨状を慰めてくれはしないかと思って(未来の)夫にLINEすると、「大変ですね。でもあなたがそうやってタイでひとりであたふたしてるところを想像すると笑える」と返ってきたこと。
なんだこいつヤバすぎる……と思った。けれど、この時私は、さっきまで涙目で呻いていたくせに、ふふっと笑っていたのである。
ちょうど新年で、他にも連絡を取っていた友達が何人かいた。みんな心配してくれて、共感してくれて、そのうちの一人はいろいろ調べてくれて、タイにお金を送金してくれた(ほんとにありがとう)。
だけどあの時あの瞬間の私を救ってくれたのは、ヤバい私を笑ってくれたヤバい(未来の)夫なのである。
私が勝手に師と仰ぐ内田樹は『困難な結婚』において、「結婚は安全保障」だと言う。健やかなるときはいいんだよ、こんなに便利な現代社会で、一人で生きてたってそんなに困ることないから、と。だけど問題は病めるときなんだ、病めるときに一人でその窮状を乗り越えられない、そう思ったら結婚したほうがいいんじゃない。だから、「もっといいひと」なんていないし、今より幸せになるために結婚するなんて甘えたこといっちゃいけない。結婚は「病気ベース・貧乏ベース」。困ったときに、お互いを助けあうもの。
相手を理解することも、すごく難しい。だけど、そんな「よくわかんない人」が、傍らにいて、色んなことを一緒にやってくれるのが感動的だよね、と。
私はなかなか理不尽な存在なので、ついつい、自分がしんどくなると、機嫌が悪くなったり、八つ当たりしたり、夫には本当に申し訳ないと思います。夫もなかなかよくわかんない人なので、「ええなんでそんなことするの……」と困惑することもしばしば。結婚する前にお互いのことでわかっていたことなんてほんの一部で、夫は私がこんな激しい人間だと知らなかっただろうし、私も夫がここまで変な人だとは思っていなかった。この先もお互いのことはよくわかんないまんまだと思う。分かる気がしない。
でも、相手が困ったときにこそ、自分が傍らに存在する価値があるのだ、と思えば、どう考えても不摂生の結果に思える風邪も、気分で取ったいくつかの時間休の上にあっという間に仕事が降り積もり切羽詰まっていることも、はいはいしょうがないね家のことはこちらに任せなさい、と言える。相手の非を責めようと思えば責められるけど、そうしたら安全保障じゃなくなっちゃう。し、たぶん夫も私が自滅してひーひー言ってるとき、私のそんなどうしようもなさを指摘してもしょうがないから、変な顔をしたり、変なダンスを踊ったり、オナラしたり、私のヤバさをバカにして、私のどうしようもなさから私の意識をそらしてくれる。
夫は私のどうしようもなさの核にあるもの、みたいなものがどんなものかはわからない(私自身だってよくわかっていない)。育った環境が違いすぎるから。だから私が何に苦しんでいるかも、たぶんわからない。だから心の底から夫が私の苦しみに共感することは、たぶんない。でも共感は、やっぱり内田樹が言うように、そこまで重要ではない気がする。心の底からの共感がなくても、「あなたは今困ってるんですね、でもそんなのたいしたことねーよ!」と矮小な私の悩みを笑い飛ばしてくれる存在が、私にとってなによりもありがたいのである。