
勉強する意味/クリスマスが楽しみ②
クリスマスが楽しみ。プレゼントを考えたり買ったりするのがすごく好き。それは誰かのために~的な高尚な感覚ではなく、たぶん1年に1回、自分の物欲を正当化してあーでもないこーでもないと考えながら、物を買いまくるのが楽しいんだと思う。
1年前のクリスマスには、ウガンダに住む5歳の男の子に、クリスマスプレゼントを買った。2年くらい前から、NPO法人を通じて、毎月少額だけど、寄付をしてる男の子。伊東屋に出かけて、ちゃんとした色鉛筆って思ったより値が張るなあ……100均行こうかなあ……と思いつつ、いや、せっかくだから、とびきりきれいな色が出るやつにしよう、と思って、12色、缶ケース入りのを買って帰った。
ところがクリスマスプレゼントに贈れるものは、思ったより厳しい重量制限があり(ちゃんと読め)、スケールで計ったら缶入りの色鉛筆は思いっきり重量オーバーだった。だからもう一度伊東屋に出かけて、折り紙と、シールと、鉛筆を買った。何か月か後に、初めて直筆の手紙をもらった。英語で、雨の日は何をするのが好き?って。トマトの絵も。日本人で、果たしてどれくらいの子が、母国語じゃない言語で、手紙を書けるだろうかって感動したから、そのまんまそう書いて返した。
寄付、に払い込んでいるお金より、ずっと大きなものを、私はいつも彼からもらっている。日本で教師をやっていると、時折、子どもたちは純真に「先生、この勉強なんの意味があるんですか?」と尋ねる。私はいつも絶句する。なんて返していいかわからないから。
ウガンダに住む彼は、勉強する意味なんて、おそらく考えないはずだ。以前、シャプラニール(市民による海外協力の会)に、カンボジアで勉強する子どもたちの映像を見せてもらったことがある。みんな目をキラキラさせて勉強していた。勉強すること自体が楽しくて、自分だけでなくて周囲の人、ひいては国をもっとよくするために、勉強するんだって目的が明確だからだと思う。
日本の子どもはそういう感覚は持つのは難しいと思う。だから、「先生、この勉強なんの意味があるんですか?」と問う子どもたちを責める気持ちは一切沸かない。だけど、私が、彼らの勉強する意味を規定することはできないし、目的の見えにくい社会であることがわかっているから、私はいつも、なんと答えていいのかわからなくなるのである。
いわゆる貧しい国で、一生懸命、楽しそうに勉強する子どもたちの姿を見て、もし私の3人の子どもたちが大学へ行くといったら、できたら日本じゃないところで勉強してきてほしいと思うようになった。日比野直彦『東大よりも世界に近い学校』を読んでから、候補は、マレーシアかオーストラリア。マレーシアは中国語も英語も話せるようになりそうだし、学費は(いまんとこ)日本の4年制私大に入れるのとそんなに変わらない。
やりたいことや、行きたい大学が、日本である程度描けているなら、もちろん日本の大学に進学したらいいけど、フワッと大学行きたい、と言ったら、海外行ってほしいな。無理強いはできないし、フワッと大学行った人間が言うのもなんですけど。日本人が学びに対してアグレッシブじゃない、とか、そういうことを言うつもりはないけれど、私の酒とゲロにまみれた大学4年間を振り返ると、どうしても、海外でアグレッシブに学ぶ人たちにもまれておいで……と言いたくなってしまう。身勝手人間でございます。
今年は、ウガンダへトランスパレントペーパーを贈るつもりだった。ちっちゃい星をお手本にして。折り方と一緒に。ところが燃料の値段が上がって、もう今年からはプレゼントを贈れないことになった。条件が整えば、会いに行けるみたいだから、その日を楽しみにしているぜ、イシマ。勝手に、私のもう一人の息子だと、思っています。