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要求は喜びを吸収する 侘びという処方箋

他者視点を捉えた一言。

物事に取り組み、目的を達成した際、自分の能力を中心に評価する方法より、他者と比べて善し悪しを判断する方法を採る人の内面状態を表した言葉です。

要求する内容によって効果が分かれますが、成果のみを比較した一喜一憂の場合、自分にとって本当に必要なものが身につかず、その場限りの承認報酬しか得られるものがない。そのような心境では、内容が自分の糧となっているか怪しいものです。

自分の成果を上げるために、内容の制度を高めようとする試みによる要求なら喜びを吸収されようが自己と他者のためになる向上方法ですが、結果のみに照準を当てた要求では、吸収どころか外へ喜びを放棄してしまい、自分の行動の意味が分からずに行き詰まるまで、一時的な報酬に翻弄される虚無の時間を過ごす羽目になります。

翻弄から脱出、予防するために様々な方法がありますが、私は、日本にちなんだ「侘び」の思想が大きな効果を発揮すると思います。

Wikipediaやサイト、他の書籍でも侘びの説明は数多くありますが、ここでは私が解釈している侘び観について述べておきます。(非公式)

侘びとは、困窮、悲観、欲望、苦悩などの負の感情を、塵のように消失する虚無に過ぎないと諦観し、脱俗した高次元の視点で自分を見定めることだと捉えています。

人から認められない。環境が自分に合わない。人から愛されたい。この思いを抱くことは重要ではありますが、この欲に翻弄されたことで、さらなる苦境に陥る人達はあとを絶ちません。いくら他者からの賞賛、援助を求めたところで、このくすぶった炎はなかなか消えず、自然に消滅するならありがたいことですが、それを期待するなら、欲を薄めたほうがよっぽど手っ取り早いです。

侘びはあらゆるところに存在しますが、より感じやすいのは、冬の田園寂びれた森林閑静な人通りのない道、場所を選ばないなら沈んでゆく夕日萎れた花でもいいかもしれません。

SNSの承認に悩むなら、上記の場所に赴き、そこで色々投稿してみてください。その投稿した先にある道は、今あなたが見ている景色です。

蜻蛉日記の作者である藤原道綱の母は、夫が他の女性のもとへ通う出来事に、いたたまれないほどの苦痛と嫉妬に苛まれていましたが、京都にある鳴滝の般若寺に籠る(鳴滝籠り)ことで、ひとりよがりな考え方が矯正され、客観的に物事を見れるようになりました。諦観した意識を持ったことで、現状が変わらなくとも穏やかな心境に至ることができたのです。

承認を得ることで要求が自然と薄まるならそれで結構ですが、いつまでもパズルのピースが埋まらないと悩んでいる時。侘びという思想が、パズルごと崩してくれるかもしれません。


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