無料公開② 女子高校硬式野球との出会い
2007年8月。兵庫県丹波市。
私は祖母の墓参りに行っていました。
周囲には山しかありませんが、思い出が詰まった、大切な故郷です。
両親は私が幼いころに離婚をして、二人とも姿を消しました。
残された8歳の私と4歳の妹を引き取ってくれたのは、年金生活の祖母でした。
絵に描いたような貧乏生活でしたが、祖母は私たちを心から愛してくれました。
祖母との思い出は、今でも私の胸に強く残っています。
私は毎年、そのころの思い出を慈しむために墓前に立っています。
その日も、当時の記憶に浸りながら祖母の墓を磨いていました。
すると、どこからか、
『三回の表、神村学園の攻撃……』
というアナウンスとともにワー、ワー、と大きな歓声が響いてきました。
「野球の大会……? こんな田舎で?」
野球が、中でも高校野球が大好きな私は、その音を聴いていても立ってもいられなくなりました。
近くにいた顔馴染みの老夫婦に、
「あれはなんですか?」
と聞いたところ、
「野球好きのあんたが知らんかったとはびっくりやな。何年も前から春と夏に、すぐそこの運動公園で女の子の高校野球の全国大会をやっとるんよ。ここから車で10分かからんで。観てきぃや」
と教えてくれました。
女子高校野球の全国大会、そんなものが存在していたのか、と驚きました。
周りの人から「⻆谷さんは高校野球博士ですよね」と言われることもある私ですが、全く知りませんでした。
「博士の名折れだな」などと考えながら老夫婦にお礼を言い、車に乗り込み球場に向かいました。
山ばかりの町の中にポツンとある「スポーツピアいちじま野球場」に到着すると、
《第11回全国高等学校 女子硬式野球選手権大会》
という立て看板が目に入りました。私は、
(少年野球くらいのレベルかな? 女の子だし、もっと下かな?)
くらいの気持ちでスタンドに入り、
驚きました。
しなやかな投球、
スイングの鋭さ、
男子以上に滑らかな内野守備、
送球、鮮やかなクロスプレー。
これが女の子のプレー? ウソだろ? と思いました。
目に映る全てが衝撃的でした。
いや、さっき一回うまくいっただけで、まぐれではないだろうか。
そう思った私の横で、観戦していたおじさんたちが歓声を上げました。
「やっぱ菜摘ちゃんはうまいな! 日本代表に選ばれただけのことはある!」
「神村学園の中野、厚ヶ瀬も天才やからなぁ」
「宮原も球が速いで。こっちもさすがの日本代表や」
違和感のある言葉に、私は思わず聞いてしまいました。
「あ、あの……日本代表って、何の日本代表なんですか?」
おじさんはきょとんとした顔で、
「何って……女子硬式野球のワールドカップやがな。2年に1回、女子硬式野球の世界一を決める国際大会や。去年が2回目やってんけど、日本は銀メダルとったんや。その大会に、あの子、中野菜摘と宮原臣佳が選ばれたんやで……あっ! 中野がまた打った‼」
と、また試合に熱中しはじめました。
私はとにかく驚きを通り越し、試合が終わっても席を立てないほど呆気にとられました。
話をしてくれたおじさんに、
「きっとこの子たちなら、大学に入っても活躍するんでしょうね……」
とポツリと伝えると、さっきまで意気揚々と話をしていたおじさんの顔が急に暗くなりました。そして、どこか諦めたように微笑んだのです。
私がそのおじさんの表情の意味を知ったのは、その後のことでした。
野球が好きな女子たちの儚い青春
全試合が終わり、日が暮れかかったグラウンドの片隅で、選手たちは汗と砂塵で汚れた顔を隠すように土まみれのユニフォームの袖で涙をぬぐっていました。
さっきまでの男子顔負けの勇敢さで硬球を追いかけていた姿はどこにもなく、普通の女子高生に戻ったように泣きじゃくる彼女たち。
どこか様子がおかしい。勝者も敗者も、みんな一様に大泣きしているのです。
「負けて悔しかったのか……。勝って嬉しかったのか……」
そう呟いた私の肩に、おじさんが手を置きました。
「あの子らの野球人生は、この試合でおしまいや」
「えっ。でも、大学とか、社会人野球はないんですか」
「ないない。そもそも、女の子が高校まで野球続けることが相当しんどいねん。
リトルリーグには結構野球やっとる女の子も多いねんけど、中高になると硬いし危ない、男子に混ざるのも危ない、風紀的によくないと言われる」
「そんな……」
「それにな。女の子だけでは野球できる人数が集まらん。集まっても、グラウンドは男子が先に使う。どんなに野球が好きでも、野球ができひんなんねん。せやから、ソフトボールに行ったり、テニスに行ったり、別のスポーツはじめよんねん。それが普通やねん」
「そうだったんですね……」
「普通知らんわな……。やけどここにおるあの子らは、それでも野球がしたくてしたくて、どうしようもなくて、全国にたった5校しかない〝女子硬式野球部〟がある埼玉、東京、鹿児島に野球留学した子たちや。オシャレも恋もなんも後回しにして、16歳で見知らぬ土地に行ってまで、野球がしたかった子たちや」
「知りませんでした……」
「でも、これで本当にもう最後。終わりやねん。あの子らにとっては、野球が終わってしまうねん。この丹波で、人生最後の試合をして、おしまいや」
この言葉は私に大きな衝撃を与えました。
ここにいる人たちは、選手も監督も保護者も、みんなそのことがわかっているのです。
これで最後だとわかっているからこそ、本気で、必死で、プレーをしたり応援をしたりしているのです。
それを思うと胸が強く痛みました。
「それだけ好きなのに、ずっとは続けられないんですか……」
「女の子が野球をするってことは、あんたが思うより厳しいもんなんや」
おじさんの言葉を聞いて、いくつかの記憶が蘇りました。
祖母と過ごした貧乏な日々。
脳に大怪我を負いスポーツができなくなった中学生時代。
脳腫瘍が発覚し、せっかく合格した大学にも、1日も行けなかったこと。
手術の傷跡が激しかった私の顔を、異物を見るような目で見られた社会人時代……。
自分の力では、どうしようもないことがある。
その絶望感を私は知っていました。
「どうにか……どうにかならないもんですかね……」
自然と口から漏れていました。
彼女たちのために、何かできないか。
そう考えはじめたら、もう止められませんでした。
メラメラと、腹の底から熱い気持ちが湧き上がるのを感じたのです。
地元で大会が開かれていたこと。
それが祖母のお墓参りの日だったこと。
全てがご縁だと感じました。
「アンタ、どないしたんや?」
おじさんは不思議そうにこちらを見ていました。
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Note版 特別コメント
当時の試合に出場していた
厚ヶ瀬美姫選手
にコメントと、当時のお写真をいただきました。
当時は女の子が野球を続ける環境がなかったので、
「ただ高校での大会で全国制覇したい!」
という目標しかなく、がむしゃらに野球をしていました。
全国大会が終了してからは
“やり切った”
という気持ちが強く、今後は「趣味程度」の野球にしようと考えていたんです。
私達の試合を見たことがきっかけで、「女の子たちが野球を続けていける環境をつくってあげたい」と思ってくれた事は、今ではただただ、感謝しかありません。
あの時に見に来ていただいて、「野球が好き!」という気持ちが角谷社長へ伝わり本当に良かったです。
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人生は蒔いた種のとおりに実を結ぶ。
いつかこの想いが届きますように―――。