無料公開④ 絶望の淵
1980年3月。
入学手続きのため神奈川県の東海大学に行く日がやってきました。
大学の事務室で手続きを終えると、私は真っ先に硬式野球部のグラウンドに向かいました。目的はもちろん、原辰徳選手です。
グラウンドに到着すると、バックネットの周囲に多くの人がいました。
女性ファンの声援も聞こえました。
練習用の白いユニフォームの群れの中でも、原選手がどこにいるのかすぐにわかりました。明らかにオーラが違うのです。
憧れの原選手が目の前にいる!
これから何度も見ることができる!
私は、これからの大学生活に夢が膨らみました。
しかし、そう思ったのも束の間。
大学のグラウンドで原選手を見た次の日。
私は昔入院していた兵庫県の神戸大学医学部附属病院で、脳の定期検査を受けることになっていました。入院していたときにはなかった最新鋭のMRIで、脳の検査をするためです。その結果、
「脳に腫瘍が見つかりました。緊急手術が必要です」
数時間前まで抱いていた夢は、その一言で音を立てて崩れ落ちました。
1980年4月20日。
17時間にもおよぶ脳の大手術を受けました。
全身麻酔から目を覚ましたとき、私は右目の視力をほぼ失っていました。
視界が半分になり、右半身の感覚は鈍り、まっすぐ歩くことができず、何にもないところで転んでしまいます。
「これじゃ自転車に乗れないから新聞配達ができない……大学も諦めなきゃいけない……入学金や授業料で借りたお金をどうやって返せばいいんだ……」
左目は見えているはずなのに、目の前は真っ暗です。
思いつめた私は、ある日の真夜中、置き手紙を残して病院の屋上に行き、柵を乗り越えました。
死ぬつもりでした。
最後にぼうっと夜空の星を見つめていると、置き手紙を見つけた看護師や医師が駆けつけてきました。
「ケンイチくん、落ち着け! 死んでどうなると言うんだ!」
ふっと、張り詰めていた気持ちがはじけました。
「生きとってもどうにもならんわ‼ きれいごとばっかり言うな‼」
私は生まれてはじめて、人前で辛い気持ちをぶちまけました。
泣いて、泣いて、泣きまくりました。
何時間にもおよぶ説得を受け、私はようやく思いとどまることができました。
その後も入院生活は続きました。苦しい闘病生活を終え、退院するころには、外ではセミが鳴きはじめていました。
高校野球を見るようになってから、私が唯一、記憶にない大会が1980年の第52回春のセンバツです。
病院にいたため、観戦どころではありませんでした。
右目が見えない恐怖と戦いながら丹波の家に帰ると、そこに祖母はいませんでした。
妹に話を聞くと、なんと私の手術と同じころに祖母は直腸癌で倒れて手術を受けており、現在は伯母が引き取って面倒を見ていると言うのです。
大きなショックを受けましたが、生活費と妹の学費を払うため、私は働かなければなりません。
長期入院で衰えた体力と、相変わらず続く頭痛に苦しみながら、仕事を探すことにしました。
面接で30社以上に断られ、やっと臨時で配送会社に雇ってもらえましたが、私の顔は脳の開頭手術後で浮腫(むく)み、髪も生えず頭に大きな傷もあったので、お客様から「あの店員、キモチ悪い」と苦情が入り、即日解雇されました。
まるで自分が人間扱いをされていないようで、ショックだったのを覚えています。その帰り道、どこをどう歩いていたのかわかりません。
「生きていたらいいことがある」と励まされ、一度は立ち直りましたが、結果は散々です。
祖母は倒れ、妹のためにも私が働かないといけないのに、自分ではどうすることもできない部分で社会から否定される日々……。
「やっぱり死のう……死んだ方がましや」
私は柵を乗り越え、鉄道の線路にでました。
まもなく後方から、ものすごい汽笛が聴こえてきました。
〝パ~~~~!!!〟
私はギュッと目を閉じました。
…………
気がつけば線路の横に転んでいました。
とっさに避けたのでしょう。
私には生きる勇気も、死ぬ勇気もなかったのです。
絶望した私は、いったん丹波を離れることにしました。
その後、神戸市灘区の家賃8000円程度のボロアパートに住みながら、仕事を探すことにしました。
当時の記憶は、60歳を前にした今でも心の中から拭い去ることができません。絶望の季節でした。
何もない、自分には何もない。何もつくり出せない。
だからこそ、私は激烈に自分の存在を示し続ける高校球児に強い憧れを持ったのかもしれません。
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人生は蒔いた種のとおりに実を結ぶ。
いつかこの想いが届きますように―――。