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note版「女子プロ野球クライシス」⑧協力者たち

河川敷の隅で、

辛い境遇を感じさせずに、

楽しそうに練習をする女性たちを見た翌日。

社員の前で女子プロ野球設立の話をしました。

私が高校野球好きであることはほとんどの社員が知っていました。

しかし、まさかの話に社員のみんなは、最初呆然としていました。


「女子硬式野球の、プロ?」


多くの社員の頭の上に「?」マークが浮かんでいるのが見えました。

しかし、当然のことだと思いました。

少し前の私が聞いても、同じ反応をしたと思います。


それから、私はまたあの日のことを順番に、丁寧に、伝えていきました。

「社長がまた変なことをしようとしている」
「以前、盲導犬の育成に数千万円? 数億円? 寄付してましたよね?」
「ま、新しいこと好きは社長のクセだから」

などという言葉も聞こえ、反対されるかも、とも思いましたが、

「でも、面白いですね! やりましょう!」
「夢の応援をするなんて、わかさ生活らしいじゃないですか!」


と、多くの仲間が支持してくれました。


経理担当の社員や数人の社員は諦めた様子で「またか……」と険しい顔をしていましたが、彼らにはたまにすごく怒られるので、それで許してほしい、と思いました。


「わかさ生活らしい」と言ってくれる社員がいたことで、私は自信が持てました。 


 わかさ生活はもともと、お金儲けがしたい、と言う考えからではなく、一人でも多くの人の健康の役に立ちたい、悩みを持つ人たちが、少しでも健やかに生きていけるようにしたい、と思って立ち上げた会社です。
昔も今も、その考えは変わっていません。


社員の中には、複雑な気持ちの人もいたでしょう。


おそらく膨大な費用がかかるし、ちょっとやそっとでは事業としての成功は見込めないことは誰にでもわかるからです。


それでも私は「なすべきことだ」と判断したことは、とにかく実行する性分なのです。

それにどれだけの費用が掛かったか、は重要ではないと思っています。 

 もちろん全員に「そうであるべきだ」と言うつもりはありません。


お金をしっかりと管理する人が必要なのは明白ですし、彼らがいなければ私の会社はとっくに潰れていたかもしれません。


それでも、私はみんなで協力すれば、女の子たちが野球で食べていける未来は実現できると思っています。


不安や不満の声もありましたが「女子硬式野球なんてどうでもいい」と思っての言葉でないことは、わかりました。

守らなくてはならないものが増えるため、簡単に決断ができないだけなのです。


そんな彼らに、まずは女子野球選手のことを知ってもらおうと、2008年12月に女子選手対社員チームで親善試合をしてみることにしました。


わかさ生活の社員の中には、肩の故障で引退したもののMAX154㎞/hの球速でプロ野球で数年間活躍したピッチャーなどがおり、レベルの高い社員チームだったのですが、互角の試合となりました。

社員は女子選手のレベルの高さと、野球に懸ける情熱を感じ、彼女たちを応援する気持ちが高まっていきました。


そんな風に、徐々にではありますが社員全員で女子硬式野球を応援しようという気運が高まりました。



心強い味方

社員からの理解と並行して、もっと理解者・協力者が必要だと考えた私は、片桐さんと一緒に女子硬式野球チームがある5校のほか、有志のクラブチーム、草野球の女子硬式野球チームなど、北海道から沖縄まで、調べられる限り、行ける限りのチームや団体を2週間かけて回りきりました。


挨拶はメールや手紙、電話で済ませることもできたかもしれませんが、私は対面にこだわりました。


きっちりと筋を通して、堂々と女子プロ野球を運営したい、という私たちの誠意を伝えるためでした。


しかし意外であったのが、多くの人から色んな声を頂きましたが、予想よりも温度が低かったことでした。 

「まあ、頑張ってみてください」
「応援はしてますけどねえ」
「歌とか踊りとか、アイドルっぽいことを入れるといいんじゃないですかね!」

みんな、当事者であるはずなのに「女子プロ野球リーグ設立」ということを他人事のように捉えていました。


もっと喜んでもらえると思ったので、少し残念でした。
しかし同時に、「仕方のないことかもしれない」とも感じました。


染みついた「諦め」の気持ちや、選手たちが夢を持って全力で野球をする環境がそもそもなかったことがそうさせたのかも、と思ったのです。


仕事においてもそうですが、前例のないことや新しいアイデアというものは多くの人から反対され、いくら説明しても心からわかってもらうことは難しいものです。


もちろん、中には
「絶対入団テストを受けに行きます」

「大きな球場でみんなと野球をするのが夢だったんです。頑張ってください」

「たくさん練習して、絶対プロになります! 待っててください!」

と言ってくれる人たちもいました。

彼女たちの目は期待と夢に溢れ、キラキラと輝いているように見えました。このような言葉には本当に勇気と元気を貰えました。



彼女たちの一言ひとことが、私にとって、

──今やろうとしていることは、絶対に無意味ではない。

そう確信させてくれる、希望の光でした。



女子野球をもっと応援してもらうためには、男子野球界にも理解者がいてくれる必要があると私は考えていました。

そこで、是非とも応援をお願いしたい、と思ったのが太田幸司さんです。

太田さんは1969年、夏の甲子園大会の決勝戦で、伝説と言われている

「延長18回再試合」

という名勝負を繰り広げた選手で、その端正な顔立ちから

「元祖甲子園のアイドル」

とも呼ばれた人です。

近鉄バファローズで12年、読売ジャイアンツ、阪神タイガースで1年。

計14年間プロ野球でも活躍し、引退後は関西を中心に解説者やスポーツキャスターとして活躍していました。

片桐さんの力を借りて、なんとか太田さんとの面会のチャンスを得た私は、女子硬式野球の魅力と女子プロ野球に懸ける想いを伝えました。

「いやぁ、世の中にこんなに野球好きの社長さんがいらっしゃるとは思わなかった! 私にできることがあれば、前向きに考えたい」

太田さんの前向きな姿勢に私は、

「実は近々、第5回全日本女子硬式野球選手権大会があります。観に行きませんか」

とお誘いをしました。



2009年夏。

全国から27チームが愛媛県松山市に集まり、5日間で35 試合が行われました。

この大会に一緒に行った太田さんは全てを観終わりこう言ってくれました。

「いや……しかし……こいつは驚いた……。これほどのレベルとは。正直言って、私は女子野球を遊びの延長だと思っていました。遊びであっても野球を愛してくれるのであればそれでもいい。でも」

太田さんは語気を強めました。

「彼女たちは違った。ひたむきに野球と向き合ってきた野球人同士の真剣勝負です。」

「女子プロ野球リーグのスーパーバイザー、正式にお引き受けいたします」

そして、2009年8月17日。
初代理事長となる片桐さんをはじめ、太田さん、社員のみんなの協力のおかげで「株式会社日本女子プロ野球機構」が誕生しました。

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翌日、2009年8月18日。

「関西を中心に女子硬式野球リーグの創設を目指し、8月24日に大阪で会見を行います」

と公表しました。


全てが前向きに進んでいました。

「これから、新しい夢がはじまる」

そう感じていた矢先のことでした。

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2009年8月19日。


私は、脳腫瘍の後遺症によるてんかん発作に襲われたのです。


突然、頭を叩き割られるような痛みを感じ、気を失いました。



目を覚ましたのは8月22日。会見まで残り2日となっていました。



このとき私はてんかん発作による意識混濁、記憶障害が続いていて、家族の認識すらできませんでした。また、舌が絡んでうまく喋ることもできませんでした。


そんな中、必死な思いで娘に

「片桐さんに、連絡を……」

と伝え、メールを打ってもらいました。


《リーグ設立会見は任せた》


それしか、伝えることができませんでした。

…………

……


私はこの後、約1ヶ月間の入院生活を送ることになりました。


しかし、私の身体のことを知ってくれている片桐さんと、同じ志を持った太田さんが、見事な会見をしてくれました。

モニター越しでも、太田さんの力強さが伝わりました。

病院で会見の中継を見ていましたが、画面越しでも太田さん、片桐さんの熱い想いを感じることができました。


「これでついに、正式に女子プロ野球がはじまるんだ」


静かな病院のベッドの上で、私は小さくガッツポーズをしました。


身体は思うように動かすことができませんでしたが、気持ちは、これ以上ないくらいに昂っていました。


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女子プロ野球リーグ

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人生は蒔いた種のとおりに実を結ぶ。

いつかこの想いが届きますように―――。