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無料公開③ 人生を救ってくれた、野球

私は、人から「少し異常ですよ」と言われるくらい、高校野球が大好きです。


それは、高校野球に何度となく人生を救われてきたからです。


人より少し苦難が多かった私の人生ですが、それらを乗り越えられたのは、間違いなく高校野球のおかげです。

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両親が離婚して姿を消した後、祖母は1人分の年金で私と妹を育ててくれました。

貧しいながらも幸せな生活をしていましたが、10歳のある日、私の人生を大きく変える事件が起こりました。

川で自転車遊びをしていたとき、私は2~3メートルの高さから転落し、顔面を岩に打ちつけて大怪我をしたのです。

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すぐに病院に運ばれたそうですが、1週間意識は戻りませんでした。

診断によると「くも膜下内出血」で、頭の血管が切れ脳の中まで血が溢れていたそうです。

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幸い命はとりとめたものの、以降、たまに頭を割るような痛みに襲われるようになりました。


怪我の後遺症でそれまで通りスポーツができなくなってしまった私は、みんなが夢中になっていた野球もできなかったので、いつも土に棒で絵を描いたりテレビでアニメを見たり、マンガを読む日々を過ごしていました。


そんな私が「高校野球」と出会ったのは中学1年生の夏休みでした。

ある日、たまたま友達の家に遊びに行ってスイカを食べていると、テレビで第56回全国高等学校野球選手権大会の開会式が中継されていました。

いわゆる「甲子園大会」です。テレビに熱中していた友達が、

「ケンちゃんはどの学校を応援するの?」

と聞いてきましたが、そんなことを聞かれてもさっぱりわかりませんでした。

その日はなんとなくテレビを眺めていただけですが、あまりに楽しそうに中継を見る友達とお父さんを見てからというもの、高校野球のテレビをつけてみたり、『ドカベン』などの野球マンガを読むようになり、自然と野球のルールを覚えていきました。

そんな日々を過ごす中、1人の選手の存在に私は強く心を掴まれていました。

東海大相模高校、当時16歳の原辰徳選手です。
1年生なのにレギュラーで出場していたのです。

「3つしか歳が違わないのに、このお兄ちゃんはスゴい。しかもカッコイイ」

素直に原選手に興味を持ちました。

この大会で原選手がいる東海大相模高校が延長15回の壮絶な試合の末負けてしまったとき、私は涙を流していました。

13歳の夏、高校野球が持つ輝きに、完全に心を奪われてしまったのです。

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貧乏と後遺症と野球


実はこのころ、身体のハンデを隠し祖母にも内緒で野球部に入っていました。

怪我の後遺症からか、頻繁な頭痛と、右目の右端に「見えないゾーン」が出現しはじめました。それでも怪我をごまかしながら部活を続けていました。

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しかし、中学2年の夏、ついに異変が起きてしまいました。

「ぐぐう……‼ 頭が割れる‼」

今まで味わったことのないような激しい頭痛が私を襲ったのです。

すぐに病院に運ばれましたが、当時の医療技術では原因がわからず、ただ痛み止めを投与されながらの入院生活がはじまりました。

入院期間は7ヶ月にもおよび、ようやく退院したころには、私は中学3年生になっていました。

当然、そのような身体で野球などできるはずもなく、そのまま退部しました。

しかし、そんな状況にあっても、私の高校野球好きはとどまるどころか高まっていく一方でした。

退院の3ヶ月後には夏の甲子園大会を全部見てやろうと思い、大阪の親戚の家に2週間居候をさせてもらい、13日間で合計40試合をこの目で完全観戦したのです。

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最高に楽しかったことを覚えています。本当に貴重な体験でした。

そして私は、「甲子園大会に出場できる高校に行きたい」という夢を持ちました。

野球ができる身体ではないのに、野球の強い高校を志望したのです。

貧乏生活で普通の高校にすら行けなかった私でしたが、新聞奨学生制度を使って家から片道約30キロ、自転車で2時間の場所にある福知山商業高校(現・福知山成美)に入学しました。

当時、地方大会で「あと一歩で甲子園出場」というところまで勝ち進んだ地元の強豪校です。夜明け前に朝刊を配達し、2時間かけて学校に通う生活がはじまりました。

そしてなんと、入学後、私は懲りずにまた野球部に入ったのです。

どんな形であれ野球のそばにいたい、という気持ちで入部したのですが、またしても長く続けられませんでした。

奨学金制度を使ってもなお、生活にお金が足りなかったのです。

どうしても部活動をしながらお金を工面することができなかったので、結局、野球部は数ヶ月で退部しました。

そして、新聞配達のほかに中華料理店、町工場でもアルバイトをして自分の学費、妹の学費、家族の生活費を稼ぐ生活でした。

それでも毎年、甲子園大会だけは見逃すことはありませんでした。

いろいろな背景、家庭環境を持つ同世代の高校球児たちに刺激を受け、

「俺も負けるもんか」

と思い、辛い身体にムチをうって早朝の新聞配達にでかけるのでした。

高校3年生の進路指導。

高校野球から刺激を受け学業も頑張った甲斐があって成績がよかった私は、先生から京都に本社がある大企業への就職を勧められました。

私も、祖母と妹との生活のため、その会社に行こうと思っていました。

一方で、高校野球が大好き、いや、人生そのものと考えていた私には、もう一つ夢がありました。

それは、学校の先生になり、いつの日か野球部の監督になるということ。

ただ、教員になるには大学へ行かなくてはなりません。金銭的に大学進学は困難でしたし、高齢の祖母を丹波の田舎に残して、都会の大学へ進むことはとても心配でした。

こんなときでも「高校野球」を判断の基準にしてしまっていいのだろうか、いや、でも……私は悩みに悩んでいました。

そんな私を見かねたのか、担任の先生が、

「大学に行きたいのなら新聞社の奨学制度がある。大学卒業後に働いて返済しなければいけないが、君の行きたい道に進める制度かもしれないよ」

そう言って、パンフレットを渡してくれました。

私は目がまん丸になるくらい驚きました。

「いつもやっている新聞配達で大学にも行ける⁉」

そのパンフレットはすぐに付箋とメモだらけになり、ボロボロになるまで読みました。

決断は簡単ではありませんでした。

祖母を大切にしたい気持ちと私自身の夢の狭間で、悩んで悩み抜いた末に、私は祖母に、大学へ行きたい気持ちを打ち明けました。

すると祖母は辛そうに言いました。

「おばあちゃん、力ないよってに、あんたに何もしてあげられへんことをいつもすまないと思ってる……」

そして、こう続けたのです。

「ケンイチ、お前の人生や。おばあちゃんのことはかまへんから好きな道を進みなはれ! その方が、おばあちゃんには嬉しいよって……」
 

涙が止まりませんでした。

祖母が背中を押してくれたおかげで、私は大学進学を決意することができました。

同時に、都会の大学で勉強をしながら働き、一日も早く祖母を迎えに行く。

そして、一度も行ったことのない温泉や旅行に連れて行く。

そう心に決めました。

志望校は1校、東海大学です。
理由は単純明快。
憧れの人、原辰徳選手が在学していたからです。

人生を懸けたチャンス。

それすらも、私の判断基準は「高校野球」に関するものでした。

塾にも行ったことがない私にとって、ハードルは高かったと思いますが、無事合格できました。

合格通知が来たときは家中を転がって喜びました。通知を見た祖母が自分のことのように喜んでくれた姿は、今でもはっきりと覚えています。


野球のおかげで、野球の力で。

人生が、少しずつですが明るくなっていく事を感じていました。

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Note版 特別コメント

元プロ野球選手であり、現在京都フローラの監督をなさっている

川口知哉さん

にコメントを頂きました。


「高校時代は “目標”でもあり“夢の舞台”でもある「甲子園」を目指して、ただひたすら一生懸命野球に取り組んでいるだけでした。」人のためというより自分自身のためですね。
それでも、「高校野球で救われた」「勇気をもらった」と言っていただき、逆に僕自身が勇気をもらうことができました。
一生懸命やっているだけでも、人の役に立てることができるっていうことを、もっとたくさんの人に知ってもらいたいです」

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人生は蒔いた種のとおりに実を結ぶ。

いつかこの想いが届きますように―――。