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全日空61便ハイジャック事件
全日空61便ハイジャック事件は、平成11年7月23日に東京都大田区の東京国際空港(羽田空港)で発生したハイジャック事件。
飛行中の全日空61便のコックピットに男が侵入し、機長を刺殺して操縦を図った、日本におけるハイジャックで人質に死者が出た初めての事件である。
第1章 - 憧れと挫折
伊藤誠(仮名)は、昭和45年9月、東京都内で特許事務所に勤める父と専業主婦の母の次男として生まれた。幼稚園の頃から、食事の動作が遅く、運動神経にもやや劣るところがあった。小学校の低学年から、同級生との外遊びを避けるようになり、時にいじめの対象となった。しかし、体育を除く主要4教科の成績は優秀だった。
昭和58年、伊藤は難関私立のH中学校に進学。いじめから解放され、中学時代は物理部で活動、高校時代には鉄道への関心から同好の友人たちと鉄道旅行やプロ野球観戦に出かけるようになった。
平成2年、I大学商学部に入学。内向的な性格を克服しようと、学園祭運営のサークルに入部。しかし、周囲との人間関係に悩み、わずか半年で退部。その一方で、交通関係のサークル、特に航空関係のサークルでは生き生きと活動した。羽田空港での航空貨物の積み下ろしのアルバイトに励み、飛行機で国内外への旅行を楽しんだ。
大学では交通経済学を専攻。「日本の基幹空港整備の必要性」という卒業論文を書き上げ、航空会社への就職を第一志望とした。イギリスへの短期留学も自ら企画して実現させるなど、積極的な姿勢を見せた。
しかし、航空会社への就職は叶わなかった。平成6年4月、L貨物鉄道株式会社に幹部候補として入社。しかし、職場での人間関係に馴染めず、仕事の段取りも上手くできなかった。特に関西支社配属後は、貨物指令の業務になかなか適応できず、懇親会の席で上司から注意を受けると突然土下座をして謝罪するなど、周囲を困惑させる行動も目立った。
平成8年10月、「これ以上望みようのない環境下にありながら、もはや心身とも疲労の極に達しています。指令業務には向きません」という置き手紙を残し、会社の寮から失踪。約5ヶ月間、北海道、徳島、長崎などを転々とした。この間、「これ程の孤独は、要は、僕が悪いんであって、会社に入ってからますます人と深い話ができなくなって、友達がさっぱりできません」という言葉を遺書がわりのノートに残している。
第2章:蝕まれる精神
平成9年3月末、5ヶ月に及ぶ放浪の末に自宅へ戻った伊藤は、両親との会話を拒絶するようになっていた。退職や放浪の理由を問われることを避けるため、失語を装い、両親との対話を完全に遮断した。心配した両親は、同年4月、伊藤を東京都墨田区内の医療法人社団F会Gクリニックへ連れて行った。
Z医師は、伊藤に「他人が話しているのを見ると悪口を言われている感じはあるか」「自分がのけ者にされている感じはあるか」といった質問を行い、伊藤が肯定的な反応を示したことから、被害関係妄想があると判断。さらに、失語状態で寡黙にうずくまる様子から、統合失調症(当時の診断名は精神分裂病)による亜混迷状態と診断し、抗精神病薬による治療を開始した。
しかし、抗精神病薬の副作用は強く、尿が出ない、よだれが出る、手が震える、食欲がないなどの症状に苦しんだ伊藤は、同年6月末、Gクリニックへの通院を中断。この際、同クリニックの臨床心理士に対し、失語は演技であったことを告白している。
同年6月25日、伊藤は東京都葛飾区内のBクリニックでX医師の診察を受け始める。X医師は、伊藤に幻聴や妄想、支離滅裂な行動といった統合失調症の症状が見られないこと、心理テストの結果にも異常が認められないことから、統合失調症ではないと判断。その上で、「中程度のうつ状態」との診断を下し、抗うつ剤による治療を開始した。
平成10年5月23日から、抗うつ剤プロザックの投与が始まる。同年7月、京都の人材派遣会社への就職が決まった際、伊藤はX医師に宛てた手紙で「環境が激変する時こそプロザックの効果に期待したい」と記している。しかし、わずか1週間で退職、再び自宅に戻る。
同年9月11日、「よりよい社会の実現のためには、効率の悪い労働者は自ら淘汰しなければならない」という遺書を残し、睡眠導入剤を大量服用。その後の興奮状態で父親に殴りかかるなどの異常行動を示し、東京都小平市内のE病院に措置入院となった。
平成11年に入り、投薬内容は次々と変更され、伊藤の様子は大きく変化していく。テレビのバラエティー番組を見て大声で笑ったり、父親に生活態度のことで注意されると語気を荒げて反発したりするようになった。
家族は異変を感じ取っていた。母親は平成11年6月9日、X医師に宛てた手紙で「その後も焦燥感は解消せず、私も先生にご相談したくとも心配で家を離れられませんでした」と訴えている。
後の裁判で、保崎鑑定医は「被告人の今回の犯行時の精神状態は、抗うつ剤による治療の途上に生じた、うつ状態と躁状態の混ざった混合状態であった」と指摘する。抗うつ剤による躁転は近年しばしば認められ、その場合、本事例のように躁とうつとの混合状態を示す症例も少なくないという。混合病像においては、興奮、不穏、焦燥、抑うつなどが混入し、攻撃性を出現させやすいことが指摘された。
実際、犯行直前の平成11年7月21日に伊藤を診察したX医師は、「死にたいという気持ちがあり、うつ状態であるにもかかわらず、軽い興奮状態であった」と証言している。このように、伊藤の精神状態は、うつ病という基礎疾患に、複数の向精神薬による治療が重なり、次第に不安定さを増していったと考えられる。
そして最終的に、人格とは相容れない暴力的な行動へと至る悲劇を生むことになったのである。
第3章 - 警告
平成11年6月上旬、インターネット上で入手した羽田空港の設計図を眺めていた伊藤の目に、ある重大な欠陥が飛び込んできた。国内線西旅客ターミナルビル(通称「ビッグバード」)の出発ロビーと到着ロビーが完全に分離されていないのだ。さらに、その連絡部分には警備員等も配置されていなかった。
伊藤は、この設計上の欠陥を利用すれば、凶器を持ち込んだハイジャックが可能であることに気づく。地方空港から羽田空港への預託手荷物として凶器を運び、到着ロビーの手荷物受取場で受け取り、そのまま2階の出発ロビーに移動して搭乗すれば、凶器を機内に持ち込むことができるのだ。
同年6月13日、伊藤は両親とともに羽田空港に赴き、自らの考えた方法でハイジャックが可能であることを確認。その翌日、空港関係者に対して警告の手紙を送付する。ビッグバードを所有・管理するN株式会社、運輸省東京航空局東京空港事務所、東京空港警察署、大手警備会社のO株式会社などに宛てた手紙には、警備の欠陥とその対策の詳細な内容が記されていた。
特筆すべきは、伊藤が自己の実名と住所を明記していたことだ。さらに、N社と東京空港警察署に対しては警備状態の調査費用を請求し、O株式会社に対しては、同社が警備を受託した場合の警備員としての採用を希望する旨も記していた。
同年6月17日、N社の担当者である辛町五郎から電話があった。辛町は、別途の対策を考えていて当面警備員の増員は考えていない旨を伝えた。伊藤は、その「別途の対策」が防犯カメラによる監視であろうと推測。しかし、それだけでは変装や第三者への預託手荷物の受け渡しには対応できないと考え、同月21日、警備員配置の必要性を改めて主張する文書を送付した。
しかし、空港側からの反応は芳しくなかった。同年7月6日、空港事務所の担当者から「協議中である」との回答を得るも、具体的な進展はない。伊藤は次第に焦りを募らせていく。
同年7月16日までには、警備員増員案が採用されなかった場合、自分が発見した警備上の欠陥を突いてハイジャックを実行しようという考えを抱くようになっていた。同日、出刃包丁とペティナイフを購入。18日には、ハイジャックする航空機を検討するために必要な航空便の時刻表を入手した。
伊藤の計画は、驚くほど緻密だった。
機長の助言を受けながら航空機を操縦する
高度2500フィートまで降下させ、横須賀方面から伊豆大島方面を航行
伊豆大島上空で横田基地方向に進路変更
副操縦士を追い出し、機長をガムテープで緊縛
自動操縦装置を解除して自ら操縦
横田基地上空で旋回し、中央高速道路を目印に新宿目標に都心を目指す
最後は横田基地に着陸し、ハイジャックに使用した包丁で自殺
7月19日、伊藤は最後の確認のためN社に電話をかけた。しかし、辛町からは保安担当者会議において検討中であるとの回答のみ。空港事務所からも、別途対策を検討中で当面警備員の増員はない可能性が高いとの回答を受け、伊藤の決意は固まった。
「この際、自ら羽田空港の警備上の欠陥をついてハイジャックを成功させることで自己の指摘が正当であることを実証する」
—— その思いは、もはや誰にも止められないものとなっていた。
第4章 - 致命的な決断
平成11年7月23日午前10時50分、全日空61便のボーイング747-400D型機は、517名の命を乗せて羽田空港に佇んでいた。乗客の一人、伊藤は2階75番H席に着席した。白い手袋をはめた彼の姿を、誰も怪しむことはなかった。
離陸から約30分。車輪が機体に収納され、乗務員を含めた搭乗者全員が着席していた時を狙って、伊藤は動き出した。手提げバッグから箱入りの洋包丁(刃渡り19センチメートル)を取り出しながら、客室乗務員の丙川春子(28歳)と丁谷夏子(23歳)に近づいた。
「こういうことだから。コックピットへ連れて行け」
突然の出来事に、丙川は驚愕のあまり立ち上がった。「お客様、危ないですから座ってください」と必死に説得を試みたが、伊藤は苛立った様子で「早く連れて行け」と命じ、丙川の背中に包丁を突き付けた。
午前11時25分、丙川は震える手で操縦室のドアをノックした。甲野機長(51歳)がドアののぞき穴から外を確認し、異常に気づく。即座に航空交通管制部へ「緊急事態、ハイジャック」と通報した。
「甲野ー!!」「乙山ー!!」
伊藤は怒鳴りながら操縦室に押し入った。甲野機長と副操縦士の乙山(34歳)に包丁を見せながら、「こういうことだ。言うことを聞け」と大声で叫んだ。その場に丙川を残したまま、甲野機長の後方の座席に座り、「横須賀に行け」と命じた。
副操縦士の乙山は無線で管制官と連絡を取り、伊藤は昇降計などの計器類の位置や自動操縦装置の解除方法を甲野機長に質問し、持参したルーズリーフにメモを取っていった。
高度3000フィートまでの降下を要求する伊藤。甲野機長は「前方下方に航空機が1機いるのですぐには高度を落とせない」と返答。伊藤は一旦これを受け入れた。しかし、その後の展開は誰も予想できなかった。
午前11時37分、伊藤は突然、乙山副操縦士に「おい、乙山、そこをどいてくれ」「お前は邪魔なんだよ」と怒鳴った。包丁を示しながら近づき、「出てけ」と命じる。乙山は操縦室を退出せざるを得なかった。
狭い操縦室で甲野機長と二人きりになった伊藤。当初の計画では、機長の助言を受けながら操縦を行うつもりだった。しかし、操縦室が予想より狭く、機長の手足を首尾よくガムテープで縛ることができない。焦りが募っていく。
横田基地に向かうための進路変更地点として考えていた大島上空を通過。甲野機長から「雲が出てきたので高度を上げないと衝突の危険がある」「燃料があと2時間しかもたない」との指摘を受け、さらに焦燥感が高まる。
午前11時54分、神奈川県平塚市付近上空。伊藤は最後の賭けに出た。甲野機長に左右の座席を入れ替わるよう命じるが、機長が応じない。操縦開始の目標線として設定していた湘南海岸の海岸線が眼下に接近してきた。このままでは航空機の操縦という目的が実現できない——その焦りが、取り返しのつかない行動を引き起こした。
機長席に座って航空機を操縦中の甲野機長の頸部右側を目掛けて、洋包丁で突き掛かる。右上胸部、右頸部、右耳介部を次々と突き刺した。甲野機長は、その場で胸部右側刺切創に基づく出血性ショックにより死亡した。
自動操縦装置を解除し、副操縦士席で操縦桿を握った伊藤。しかし、操縦桿を操作しても機体の反応が感じられない。対地接近警告装置の警告音が鳴り始める中、高度は急激に低下。一時は約720フィート(約219メートル)にまで落ち込んだ。
操縦室から退出させられていた乙山副操縦士は、本機1階に搭乗していた便乗機長の己原三郎らと対策を協議。乗客を1階に移動させた後、午後0時頃、操縦室のドアに体当たりして突入。伊藤を制圧し、午後0時14分、羽田空港に無事着陸させた。
517名の命が、九死に一生を得た瞬間だった。
第5章 - 司法の判断
東京地方裁判所の大法廷。平成11年秋、全日空61便ハイジャック事件の初公判が開かれた。法廷に現れた伊藤誠は、事件当時と変わらない無表情を浮かべていた。起訴状が朗読される。航空機の強取等の処罰に関する法律違反、殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反——。各罪状が読み上げられるたびに、傍聴席から重いため息が漏れた。
「被告人の精神状態は心神喪失であった」。弁護人の主張は明確だった。
刑事司法において、責任能力とは二つの要素から成る。自分の行為の善悪を判断できる能力(是非弁別能力)と、その判断に従って行動を制御できる能力(行動制御能力)である。これらの能力が完全に失われていた場合を「心神喪失」、著しく低下していた場合を「心神耗弱」という。前者であれば無罪、後者であれば刑が減軽される。
弁護側の論理は以下のようなものだった。
「被告人は幼少期から対人関係の障害を抱え、社会での挫折を重ねた。その上で処方された複数の向精神薬の影響により、うつ状態と攻撃的な躁状態が混在する異常な精神状態に陥っていた。このため、犯行時には善悪の判断も、行動の制御もできない状態だった」
検察側は真っ向から対立する。
「被告人は高い知能を有し、緻密な計画を立て、それを実行に移している。空港当局とのやり取りも合理的で、犯行時の行動にも一貫性がある。完全な責任能力があった」
精神科医による鑑定は三度行われた。
平成11年8月の徳井鑑定は、「犯行は動機を持ち、正常心理的文脈を逸脱する病的な要因は認められない」と結論づけた。
平成13年7月からの山上鑑定は、被告人がアスペルガー症候群であったとの見解を示した。
最も注目を集めたのは、平成15年6月からの保崎鑑定である。保崎医師は「被告人は、抗うつ剤による治療の途上に生じた、うつ状態と躁状態の混ざった混合状態にあった」と指摘。近年の精神医学では、抗うつ剤による躁転がしばしば認められ、その場合、興奮、不穏、焦燥、抑うつなどが混在する状態となって、攻撃性が出現しやすいと説明した。
法廷が緊張に包まれたのは、甲野機長の妻・冬子の証言の時だった。
「主人は、順調に、仕事も人間関係も送れる人でした。なのに、殺されて最期をしめくくらなければならなかった。この痛みに、どうか刑で応えていただきたい」
彼女は一度深く息を吸い、続けた。
「私はこの男に一番重い刑、死刑を望んでいます。死の苦しみを、主人が味わった痛みを、この男にも味あわせてやりたい」
その声は震えていたが、芯は通っていた。長女は父の死後、留学先のドイツから帰国を余儀なくされ、カウンセリングを受けることになった。「結婚式で、父の代わりになる人なんていない」と証言台で涙を流した。長男も、理解者であり相談相手だった父を失い、深い喪失感を語った。
平成17年3月23日、東京地裁は判決を言い渡した。法廷は満員の傍聴人で埋め尽くされていた。裁判所は、犯行時の伊藤の精神状態について、以下のように判断した:
❶犯行の準備段階から、明確な計画性が認められること
天候を考慮して決行日を選定
操縦室内の乗務員が2名のみの機種を選択
予備の候補便まで設定
凶器の準備や搭載方法の検討
❷一方で、以下の異常性も認められること
航空機操縦の具体的経験がないにもかかわらず、操縦が可能と考えた非現実的な認識
甲野機長への突発的かつ激烈な暴行
自己の能力を超える危険な操縦行為
❸保崎鑑定の信用性
複数の向精神薬の影響を詳細に分析
躁うつ混合状態の医学的説明の合理性
被告人の行動の異常性との整合
これらを総合的に検討し、裁判所は「被告人は心神耗弱の状態にあった」と結論づけた。是非善悪の判断能力と行動制御能力は全く失われてはいなかったものの、著しく減退していたと認定したのである。
「被告人を無期懲役に処する」
エピローグ
事件から25年が経過した。517名の命が危機に瀕したこの事件。精神疾患を抱える人々への医療のあり方、向精神薬のリスク管理、そして航空安全の確保——。単なる一個人の犯罪としてではなく、社会システムの持つ脆弱性を露呈させた事案として、現代に重要な教訓を残している。
(終)
【著者注】
本作品は実際の判決文に基づいて執筆されていますが、登場人物の氏名はすべて仮名とし、プライバシーに配慮しています。事件の本質的な事実関係は維持しながら、読者の理解を深めるため、一部表現を調整している箇所があります。