木の葉化石4:メタセコイア(アケボノスギ)
今回取り上げるのは「生きている化石」として有名な植物メタセコイアです。メタセコイアは針葉樹,すなわち裸子植物の球果類ヒノキ科(旧スギ科)の落葉針葉樹です。
恐竜が生息していた中生代白亜紀から現代までほぼ姿を変えずに今日に至っているという意味ではたしかに「生きている化石」です。「生きている化石」と呼ばれている生物には,他にもシーラカンス類やシャミセンガイ,ゴキブリなどがいますが,メタセコイアが他の生物以上に「生きている化石」と呼ばれるのにふさわしいエピソードがあります。
メタセコイアは地層中に含まれていた植物化石として,現代のセコイアに似ていたため,当初はセコイア属の化石と考えられました。しかし,古植物学者の三木茂先生がこの化石をつぶさに観察したところ,どうもセコイアとは違うことに気が付きました。セコイアは1枚1枚の針葉(葉)が軸から互い違いに生えている(これを互生と言います)のに,この化石は軸から左右の針葉が根元でペアになって生えている(これを対生と言います)ことに気が付き,別の植物であることを見抜きました。また,この化石には越冬芽となるようなものが見当たらないことから,セコイアと違い,葉が冬を越さない,すなわち落葉性の植物であることも見抜きました。そこでセコイアに似た,という意味でこの化石をメタセコイア属としたのです。
三木茂先生が化石のメタセコイアを見出した後,中国の奥地の四川省で実際に生き残っていたメタセコイアの木が見つかりました。この木は化石のメタセコイアと同じで対生の葉を持ち,落葉性でした。肉眼で見られる化石の形態から三木先生が見抜いた通りでした。三木先生の慧眼には舌を巻きますが,三木先生ご自身は「中学校で習う植物形態学的な知識をもとにしてわかったこと」と語っていたようです(残念ながら現代の中学校や高校では植物形態を十分に学習しません。最近の生物分野の教科書はどうも分子生物に重きを置きすぎている気がします。しかし,基礎知識は必要不可欠なはずで,学習指導要領の内容を再考しなければならないのではないかと個人的には強く思っています)。
このように本当の意味で「生きている化石」のメタセコイアですが,その後の多くの古植物学者の研究で,メタセコイアが白亜紀から現代まで見かけ上はほとんど変化せずに生き延び続けたことが明らかとされてきました。
この画像のメタセコイア化石Metasequoia occidentalisは夕張市に分布している古第三紀の地層(石狩層群幾春別層)から採集したものです。幾春別層に限らず石狩層群の地層の多くには石炭層が含まれますが,恐らく古第三紀当時に繁茂していたメタセコイアなどの植物が河畔(後背湿地)に大量に堆積し,変質して石炭になったものと考えられています。この化石は石炭層の上に堆積していた泥岩層から見つかりました。
メタセコイアはすでに地球上に出現していたイチョウやセコイアにやや遅れて,白亜紀後期の北半球(日本でも福島県の8800万年前の地層中から化石が見つかっています)に出現し,恐竜絶滅後の古第三紀には北半球で広く大繁栄します。その後,徐々に分布を狭めていき,新第三紀の後期には日本を含む太平洋沿岸域にしか認められなくなり,やがて日本の関西地方(大阪層群)で見られるのみとなります。その後,およそ200万年前ころには日本列島から姿を消します。メタセコイアが日本から姿を消した原因は,かつては寒冷化と考えられていましたが,現代はメタセコイアが生育する場である後背湿地が減ったためであると考えられるようになっています(百原,1994など)。
現代のメタセコイアは意外と寒さにも強く,私が住んでいる札幌でも普通に球果を結実している様子が見られます。現代の日本列島に見られるメタセコイアの木は,一度日本から絶滅した後に中国から日本に持ち込まれたものです。こうして元気に生育しているところをみると感慨深いものがありますね。ちなみにメタセコイアと同じく,一度日本列島から姿を消したものの,再び外国から持ち込まれて日本で生育するようになった樹木にはイチョウやプラタナス(スズカケノキ)などがあります。これらについては別の機会に紹介したいと思います。