2024年の映画 マイベスト15選(五十音順)
『悪は存在しない』(2023) 濱口竜介監督
「無理だ」とか「いらない」といった主人公のミもフタもない拒絶の科白が耳に残ります。「何を選択しないか」を投げつけてくるような科白と所作が、彼を輪郭づけます。斧やチェーンソーで木をぶった斬る場面も何度も現れる。森に生きるこの異様な存在は誰なのか?呆気にとられるラストとあわせて、人間と自然の臨界に棲む畏怖すべき存在を突きつけてくる。自然への回帰なんて幻想を吹き飛ばす凶暴さが、映画から放たれるんです。
『エイリアン ロムルス』(2024) フェデ・アルバレス監督
SFアクションとして特筆すべきは以下の3点です。①アンドロイドのアンディは時々、急に立ち止まったりシステムのフリーズで動かなくなる。その停滞や停止のたびに状況が上書きされる仕掛けの妙。②交互に無重力と重力が交替するエレベーターが見せる驚愕の活劇。閉塞された空間で上下が不安定に入れ替わる新たな地獄。③小惑星帯への墜落の危機に曝される宇宙船。下降も上昇もないはずの宇宙空間に発生する落下の恐怖。
『越後奥三面ー山に生かされた日々』(1984) 姫田忠義監督
山間の村の暮らしでは、自然と相対しそこからの恵みを受けとるために道具と身体が使われますが、一方でそれらは自然への感謝と祈りにも使われる。与えられ与え返すという双方向での自然との関わり。そのための道具と身体を私たち現代人は持っているだろうか。村人たちの営みを映像はじっと見つめている。その時間はとりもなおさず、私たちの暮らしが失ったもの、文明が失ったものを観客が体験する時間にほかならないのです。
『お引越し』(1993) 相米慎二監督
親子・夫婦の齟齬や葛藤を描く小さなドラマなのに、大映画と呼ぶしかない格の映画が生まれた理由は次の5点です。①三角の食卓が象徴するような左右ないし上下の斜向かいでの会話。②大人も子どもも常に走り続けるアクションの連鎖。③突然画面に広がる炎や水。④坂道や山道といった斜面が人に強いる動き。⑤桜田淳子に髪型や体形の似た分身の登場。ラストの「おめでとうございます」はそれら全てを祝福する言葉にも思えてきます。
『彼方のうた』(2023) 杉田協士監督
佇むこと、隣に立つこと。そういった静かなアクションが映画に湛えられていて、人の孤独や触れ合いをひっそりと伝えてきます。微かな所作の持続と推移が人の心の在りようを表すんですね。杉田映画定番の二人乗りバイクシーンからも、疾走を共有する幸福感が溢れ出してくる。食べ物が豊かなものを映画に持ち込んできますが、単に美味しそうに食べるだけじゃなく、人の存在の要件みたいなものを伝えてくるんですね。
『カンフーマスター!』(1988) アニエス・ヴァルダ監督
40歳の主婦と中学生男子の恋愛が、凸凹(でこぼこ)すぎて呆気にとられます。わざと強調されている身長差。見ていて恥ずかしさしか感じないキスシーン。アニエス・ヴァルダがまともなカップルを描くはずもないわけだけれど……。そのちぐはぐな寓話としての恋物語から伝わる高揚や諧謔、寂寥には、しかし映画的なアイデアが充満していて、この世に在ることの意味、自分が自分であることの理由を追い求める人間像を豊かに伝えてきます。
『古都憂愁 姉いもうと』(1967) 三隅研二監督
昨夏のシネマテーク・フランセーズの特集上映で、パリの観客は剣戟とメロドラマの両方で目覚ましい傑作を撮った三隈研次という監督に驚いたことでしょう。手足までの身体を連続した面として見せる和服の動きが、微かな身体の角度の変化で劇的な変容の瞬間を生む。和装というコスチュームによるアクションが、片や市川雷蔵の殺陣の緊張、片や藤村志保のラブシーンの陶酔という別のベクトルを通って放たれるのです。
『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024) アレックス・ガーランド監督
世代の異なる二人の女性カメラマンを主人公に据えたことで、この映画は戦争映画とは何かという問いかけを投げてきます。ショットという言葉には「撃つ」と「撮る」の二つの意味があり、殺すことと見ることは、映画を成り立たせる二つの根源的な要素を形成している。この映画の冒頭と最後のホワイトハウスの場面は、上記二つの要素が交わる瞬間を映し出し、そこで何が喪失し何が継承されるのかを指し示します。
『それはとにかくまぶしい』(2023) 波田野州平監督
ドキュメンタリー映画祭でグランプリはとるものの、波田野監督をドキュメンタリー監督と呼んでいいのかどうか?現実から切り取った映像がどうやっても詩になっちゃう人がいるんですね。コロナで人との接触が絶たれた期間に毎日カメラを回す。「カメラを持っているから見つけられる」(監督談)水と風と動くもの、そして音、囁き、歌。それが地上の光への頌歌となり、やがては「巡り」という主題に行き着く。美しい映画です。
『Chime』(2024) 黒沢清監督
料理教室のメタリックな空間にじわじわ恐怖が充満していきます。包丁は『悪魔のいけにえ』のチェーンソーより生々しく凶器の感触を伝えてくるし、捨てられる空き缶のがちゃがちゃいう音は耳への暴力として響いてきます。一方、道路についたタイヤの痕跡は過去のカタストロフを喚起する記号として画面に刻まれている。恐怖は眼前の出来事として五感に直截届けられ、同時にシンボルとして想像力をかき乱しに来るのです。
『ナミビアの砂漠』(2024) 山中瑤子監督
ヒロインの立ち方、歩き方、走り方に目が釘付けになります。凶暴に世界とわたり合う圧倒的な身体。考え方や生き方なんてアングルで人間を見ることから、映画は逃れ続けます。ただただ身体の暴発的な動きが、「この人を見よ」と叫んでいる。それでいて、彼女の職業や車椅子、隣人の存在などの細部が、繊細さと的確さで積み上げられており、それでいて、そういった周到さがあっという間に投げ捨てられる驚愕の展開が訪れる。
『ふたごのユーとミー 忘れられない夏』(2023) ワンウェーウ&ウェーウワン・ホンウィワット監督
双子の愛らしくよく動く表情と映画の残酷な展開との間に奇妙なちぐはぐさがあります。甘い映画なんかにはなっていかないという作り手の意志を感じます。恋愛感情が二人の仲を引き裂くお決まりのドラマにも、しっかり映画としての芯を通す。彼らがどんどん分裂と喪失の淵に落ちていく地獄めぐりの過程が見せます。鉛筆とか射的とかのガジェットを駆使しつつ、終盤の時間を緊迫のうちに折り畳んでいくサスペンスが見事です。
『ミュージック』(2023) アンゲラ・シャーネレク監督
現代劇に翻案した、というのがにわかには捉えがたいほど解体された『オイディプス王』。物語だけじゃなく時間のつなぎも、ばらばらに解(ほぐ)されるのがこの映画です。あっという間に長い年月のジャンプが起きる一方で、何かを凝視する時間が極端に長い。何か決定的な事件が起きる際に、まずそれを見つめる人々の顔が延々と映し出される。それらを覚めて見る夢のような体験にしているのが、各場面の異様な美しさです。
『夜明けのすべて』(2024) 三宅唱監督
散髪のためカーテンが開かれ部屋に陽光が注がれる。屋内の暗がりと戸外の光が交わる玄関先や建物の出入り口で人の関係性が変容する。そんな闇と光の邂逅の瞬間が豊かに映画を作っています。事務所に「祀られ」た死者が人々を見つめていて、その視線は星の夜空に人々を導いていきもする。光と視線、空間と所作による再生のドラマ。二人の社長が涙を堪える二つの場面を、それぞれ闇と光が静かに祝福していて、私は堪えきれず落涙しました。
『若武者』(2024) 二ノ宮隆太郎監督
構図の映画。スクリーンの枠内の人の位置が雄弁に物事を語ります。画面の下半分にしか人がいないし、その位置で人がしょうもないことを繰り返す。それがいちいち意表をつくアクションを生み出していくのが、切なく可笑しいんですね。静と動がいきなり切り換わって暴力が突出する瞬間など、セルジオ・レオーネの西部劇のアクションを思い起こさないわけにいかない。二ノ宮隆太郎監督、天晴れな映画を作りました。