『午後8時の訪問者』 -原罪は扉の形をしている-
ダルデンヌ兄弟は、まるでドキュメンタリー映画みたいに劇映画を作る。街に生きる普通の人々のドラマを手持ちカメラの長回しで撮っているし、俳優たちの動きも演技とは思えないくらいリアルで自然だ。彼らが劇映画を撮り始める前にドキュメンタリーを撮っていたのもうなずける。それでいてなおかつ、彼らの映画にはドキュメンタリーの対極にある、隅々まで演出された細部と、緻密で緊密なシーンの構築がある。そんな映画づくりから、疎外と不寛容のこの時代に押しつぶされる人間に、なお他者に対する責任と使命の目覚める瞬間が訪れる、強靭なドラマが生まれる。
彼らはインタビューで、俳優たちの演技に「アドリブは一切ありません」と言っている。さらに、「この人物はこういう人だからこういうことを考えていて…」というような指示の仕方は一切しない、大事なのは体の動きなのであって、そのリズムやタイミングまで細かく(「沈黙の後に5つ数えてからセリフを言ってください」といった具合に)指示を与えている、とも言う。つまり、彼らの演技指導は、意思や感情ではなく、もっぱらフィジカルな動きにまつわることなのだ。リハーサルでそういう動きをスポーツのトレーニングみたいに反復し身体が覚えこむことで、あのナチュラルでスムーズな身ごなしが生まれてくる。
そういう彼らの身体の動きへのこだわりは、この映画のヒロインが医師であることと密接に、必然的に、結びついている。
診療時間を過ぎているからと言って、鳴らされた診療所のブザーに応じなかった女医のジェニー(アデル・エネル)が、翌朝、ブザーを鳴らした少女が殺されたのを知って、衝撃的な後悔と自責に襲われる。そこから彼女が身元不明の少女について調べ始めるという展開は、シーク・アンド・ファインドのハードボイルド・ミステリーの様相を呈していくわけだけれど、彼女は街の診療所の医師なので、受け持つ患者の中で少女と関わりがあったであろう人物を診察しながら話を聴き出していく、という場面が続くことになる。
印象的なのは、脈をみるとか不自由な体を支えるとかの身体の接触を介してのコミュニケーションだ。そんなフィジカルな対話を、ダルデンヌ兄弟は繊細に演出している。エネルという背の高い女優に、常に相手に屈みこんで耳を傾けるという姿勢をとらせたり、患者を見つめる彼女を正面からでなく斜め横から撮ることで、相手との間の空気を仲立ちにした対話であることを印象づけたりする。あくまで医療行為としての身体の触れ合いだからこそ、身体を委ねる患者は思いがけなく心情をあふれさせることにもなるし、そんな接触が、ジェニー自身の心に変化をもたらすことにもなる。だから、ラストで彼女が、おそらく自分自身、思いもしなかった唐突さで、医療という文脈を跳び越えてある人物と抱擁を交わしてしまう場面は、彼女の変容を劇的に伝えて、見る者の心を揺さぶる。
身体に関わる演出と並んでダルデンヌ兄弟の映画を特徴づけるのは、周到な空間の演出だ。この映画では「扉」という空間的なモティーフが、テーマを雄弁に語ってくる。ジェニーが人と会話を交わす画面に、扉が映り込んでいるシーンが異様に多いのだ。少女の手がかりを掴むべく様々な人物を訪ね歩き、時として彼らの触れられたくない部分に触れてしまうジェニーが家の中に招き入れられることは少なく、いきおい、玄関の扉の前や脇での会話になるのは当然だ。けれど、扉の傍らという人々の生活の内と外の境界の空間は、人々が内側に押し隠したものを外側に暴き出すという彼女の探索の実質を、私たち観客に思い起こさせる。
それに加えて、扉は、彼女の巡礼のきっかけとなったのがほかならぬ彼女自身が閉ざしてしまった扉であったことを、私たちに思い起こさせる。扉は、彼女の贖罪を試すように、彼女の前に閉ざされ続ける。それは、ジェニーだけでなく、押し寄せる難民に門戸を閉ざす欧州の、ひいては救いを求める弱者に自らを閉ざす私たち傍観者すべての、原罪の形としての扉だ。だからこそ、先述の抱擁の相手が診療所の扉を開けて表に出ていくのを見送るラストシーンは、通るべき人が扉を通り得たことの奇跡を目撃する瞬間として、私たち観客の心に刻まれることになるのだ。