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ロダン美術館の『キーファー-ロダン展』-素材に縛られることの自由-

『ロダン−キーファー』じゃなくて、『キーファー−ロダン』。つまり、アンゼルム・キーファーの展示館を見てからロダンの館へという流れ。キーファーからロダンを眺める視点が新鮮だ。

キーファーが拘(こだわ)り続けてきた素材と表現との関係性の追求は、強烈だ。素材はストレートな感触で、破壊と暴力の現代を暴き出す。たとえば鉄。不定形な雲みたいな鉄塊が、石造りの街に覆いかぶさっていく巨大な作品は、鉄が、20世紀の大戦による破壊の象徴として迫って来る。平面の油絵として描かれた都市を立体としての鉄が浸食していく様は、無残だ。

キーファーの、少女たちの服がぶら下がる作品も、惨(むご)たらしい。暴力的な歴史の犠牲になった小さな生命の、声なき声を伝えてくる。少女らの身体の柔らかい動きをなぞる形のまま、服地はこわばって固まっている。素材の感触の変容が、作品から触覚的な叫びとしか言いようのないものを迸(ほとばし)らせる。

そんなものを見せられた後で、ロダンを見ていくと、キーファーとロダンの共通性も見えてくる。キーファーと違って神話的なモチーフではありながら、ロダンの作品からも、抗えない運命にさらされた人間の苦悩が伝わってくる。表現しなければならないものがあってそれを伝えるために彫刻があるという、今では当たり前な芸術の在り方は、ロダンから始まったのがはっきり分かる。ロダン以前の、装飾としての彫刻を捨てて、張り裂けるような「表現」のためにこそ彫刻は作られる。そんな創造のイデーを(いわば音楽の世界のベートーヴェンのように)切り開いた。その道は、後のキーファーの創作へと一直線につながっている。

そんな展覧会のデザインに導かれつつ、それではロダンにとって素材とは何だったのかという発見に出会うのも、展覧会の面白さだ。たとえば、ブロンズと石膏という、ロダンをロダンたらしめている荒々しい素材の作品群の中、いきなり大理石によるはっとするくらい滑らかな美しさが現れる。これは本当にロダンなのか?『アルザスの孤児』という題名といい1880年という製作年代といい、普仏戦争でみなしごになった少女と見るべきだろうけれど、この頭像の夢見るように優美な感触と形は、キーファーの少女の服の告発の叫びとは真逆に、人を癒しと祈りに導く彫刻を作り出している。いや、そう思うのも、キーファーのあの作品群を見たからこそなのだろうけれど⋯⋯。

素材とテーマとの関係に対する関心は、確かにキーファーの作品を見ることで呼び覚まされたわけで、そういう目でロダンの素材を眺めるのは今回の展示の醍醐味だ。『キリストとマグダラのマリア』の石膏と大理石の作品を並べているのはまさに、素材の違いによるテーマの違いを知らしめる。イエス・キリストの受難は荒々しい感触の「苦痛」と優しい手触りの「救済」という二つのテーマで、それぞれに描かれるべきなのだ。

『テンペスト』の妖精アリエルは石の中から彫り出されつつも、そこからのさらなる解放を叫んでいる。閉じ込められていた木の股から救い出されても、その救い主プロスペローの奴隷として束縛され続け、またそうでありながら世界中を瞬時に飛び回る彼は、「拘束」と「自由」を同時に併せ持つ両義的な存在なのだ。ブロンズのように素材を「加えて」いくのでなく、大理石の塊から「削りだす」という取り返しのつかない作業が、むしろロダンに天啓としか言いようのない発想を与えている。大理石に捉えられながら、いや捉えられることによって自在さを獲得する創造者の自画像とも、見えて来る。


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