『クララとお日さま』
カズオ・イシグロは「犠牲」というテーマで小説を書き続けている作家です。自己犠牲を生き方として運命づけられた存在を描く。それが私たちに、あるいは我々の時代にどんな意味を持つのか。そんな問いを、彼の文学は突きつけて来ます。
『日の名残り』(1989)は、20世紀英国の貴族に仕えた執事の回想という体裁の小説です。人に奉仕する生き様の尊厳とともにそれをどうしようもなく覆う寂寥(せきりょう)を伝えて来ます。『わたしを離さないで』(2005)は、人に臓器を提供するために育てられたクローン人間の子らの物語。自身の肉体と生命を他人に捧げる者たちの張り裂けるような葛藤が描かれます。が、同時に、人生を失う運命を受け入れた人間だけが見る心に沁みる風景も、静かに読者の眼前に開かれていくんです。
ノーベル文学賞受賞後の第一作『クララとお日さま』で、イシグロはそんなテーマをさらに先に押し進めます。アンドロイドのクララが、病魔と闘う少女ジョジーの「親友」として買われていき、ジョジーの生命をなんとか救おうと奮闘するストーリー。が、描かれる近未来の世界はひどく残酷です。最新型アンドロイドB3とクララのような型落ちタイプB2が存在するゆえの、偏見や差別にクララは曝(さら)されています。人間たちも、知能向上処置を受けたか否かで選別されるという、大きく分断された世界を生きています。
そんな世界で、肉体的衰弱に冒されていくジョジーを救うために、クララがどんな策略でどんな闘いに身を投じるか。その過程で見せる小説的な仕掛けは魅力に満ちています。並行して描かれるジョジーの母親の行動も驚きの展開を見せますが、それとクララの作戦との相違を際立たせることで、献身と犠牲というこの小説のテーマの現代の私たちの時代における意味が、鮮やかに浮かび上がってきます。
この先のプロットの詳細は差し控えますが、しかしこの物語の驚くべき展開から浮かび上がってくるのは、現代の人間が失ってしまった魂の無垢と言うべきものです。それは、クララというキャラクターが持つ本質的な矛盾をどう読むか、に関わる問題です。彼女は人間を観察する高い能力と直観力を持っています。それはクララという名前がClarity (明晰さ)という言葉から想起されているであろうことからも明らかです。しかしそれだけに、クララが任務を成し遂げるためにもっとも頼りにするのが「お日さま」の光だということに、読者は呆気(あっけ)にとられます。太陽の光?それが何の役に立つのか?
読者がそんな疑問や違和感を感じることを、作者のイシグロは手ぐすねひいて待ち構えているのだと、私は思います。それが種子のように私たちの心に蒔かれ、育っていって、私たちが現実と立ち向かうための何らかの糧となっていく。文学の役割はそこにこそある。そう思わないわけにはいかないのです。