『立ち去った女』 -漂泊の視点-
3時間48分、一瞬も目が離せません。「他人の人生を滅茶苦茶にする快感には勝てない」という男に殺人の罪を着せられて30年間獄中にいた女が、出獄して復讐のために男の住む町にやってくる。アパートを借り、男の自宅近くの路上に立って男の動向を窺うけれど、町の奇妙な住人たちと触れ合ううちに、ヒロインの心には変化が兆し始める。――言葉にすればそれだけのプロットなのに、どの場面も、観客を惹きつけて離さない強い磁力を持っています。
ほとんどの場面がワンシーン・ワンカットのロングショットだけれど、そのショットの中で、劇的な出来事は起きません。劇的な出来事はシーンの外でしか起きず、我々が見せられるのは、出来事の事前か事後の場面でしかないのです。ときに陰になったままのヒロインの顔は表情さえ分からないまま、時間だけが過ぎていきます。主人公は単にそこに流れていく時間の中にじっと佇んでいるだけです。
それは、たとえば、この映画とほぼ同じ上映時間をもつテオ・アンゲロプロスの『旅芸人の記録』のワンシーン・ワンカットのロングショットとは全く違います。アンゲロプロスの映画では、個人や社会に劇的な変化をもたらす事件・出来事が、ワンショットの途切れない時間の中で進行して行きます。観客は、それをまさに今、眼前で起こっている事件として生々しく経験することになる。それに対し、ラヴ・ディアスのワンシーン・ワンカットは常に出来事に至るまでの時間、あるいは出来事を引きずって生きる時間を描きます。その過程で人の心が固まったりほどけたりする時間を、観客はともに生きることになるのです。
この映画が時間をそんな風に観客と共有する、そのあり方は、空間をどう捉えるかという視点にも関連しています。映画の主な舞台は路上とアパートの室内の二つだけですが、その二つの空間を、この映画のカメラは、いつでも斜めに見つめている。その斜めの視点に、ラヴ・ディアス映画における人と世界とのかかわり方が見えています。路上の空間をカメラは斜めから捉えるので、道は画面手前から斜め奥に延びていて、人は斜め手前から(あるいは斜め奥から)画面を対角線上に横切って歩いて行く(来る)のです。
その斜めの構図には、歌川広重の風景版画を連想させるものがあります。広重の風景の中で、道は前景から後景へと斜めに(時にはそれが折れ曲がって)伸びています。だから、そこを人が移動していく動線を、見る者は辿ることが出来ます。その構図は、例えば葛飾北斎が前景と後景とのダイナミックな対比で空間を見せていくのとは対照的です。広重の場合、風景を人が渡っていく時間を見る者も共有し、その空間を味わうことが出来るのです。ラヴ・ディアスが道を捉える斜めの構図も、そんな風に、人がそこを通っていく時間を経験させます。見る者も道をゆっくり辿り、その、人が行き過ぎていくための空間を生きることになる。だから、たとえばヒロインが男の自宅近くの路上にしゃがみ込んでバロット売りと会話をしている場面でさえも、手前から斜め奥へと伸びている道は、彼女がそこを立ち去るまでの一時的な滞留者に過ぎないことを、常に観客に意識させ続けることになります。
室内の空間も、カメラは斜めに見つめています。部屋が斜めの不安定な構図で捉えられているため、そこは常に画面外の左右の空間に向けて開かれ、そこに続く方向性を持たされています。彼女を陥れた男ロドリゴが教会の廊下で神父に告解する場面。斜めに捉えられた廊下を神父は立ち去ろうとしかけるところを、椅子にかけたロドリゴが呼び止めて話を続ける。が、その斜めの空間に導かれるようにして、結局、神父は立ち去ってしまう。この映画の空間は、いつでも人がそこを「立ち去る」ことを前提に成り立っているのです。
しかし、ラスト近く、取り返しのつかない事件が発生する場面がやって来ると、ラヴ・ディアスの空間はいきなり壊れます。それまでの前方から奥まで完璧にフォーカスの合っていた画面は突然、焦点深度の極端に浅い画面に切り替わり、主人公(及び見ている我々)は目前の現在に取り残されたような、異様な不安感に襲われるのです。
時空が変容し、世界が別のものになる映画経験は、ラストで再び別の形でやって来ます。カメラの位置と人の動きにいきなりの変化が訪れて終わるラストショットには、息の詰まるような衝撃があります。映画には終わる瞬間があることを忘れていた自分に気づく、それは本当に不思議な経験にほかなりません。
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