『ザ・スクエア 思いやりの聖域』 -野蛮のサンクチュアリ-
雑踏に響く「助けて!」という女の声に、通勤の人々が立ち止まり振り向くけれど、次の瞬間にはまた一斉にもとの歩行に戻っていく。その動きが、まるで草原の野生動物の群れみたいに見えます。主人公クリスティアンが街頭で出くわすこの冒頭の出来事に、この映画の人を描く基本的なスタンスが見てとれます。美術館のチーフ・キュレーターを主人公に据えたこの映画は、文化的洗練の極みのような空間に生きる人々の行動を描きつつも、そこに突如、ヒトという種の野生や獣性を突出させてしまう……。
公開インタビューの客席で知的障害の男が浴びせかける卑猥な言葉。大口寄付者のパーティでレストランシェフが発する怒号。館員同士のミーティングで終始泣き声を発している赤ん坊。文明の先端の風景に、文明以前の逸脱的な異物が、ぬっと顔を出して来ます。圧巻は、ビデオインスタレーションの画面で観客を威嚇し続けていたサル男が、現実のディナーパーティに乱入してくる場面。取り澄ました空間が滅茶苦茶にされる情景に、思わず笑ってしまいながらも、それは私たち自身の野生に為す術のない私たちの文化への嗤いであることに気づいて、笑いは引きつって来ます。リューベン・オストルンド監督は、ルイス・ブニュエル、ミヒャエル・ハネケという流れで形成されてきた「文明の喜劇」とでも呼び得るジャンル(?)を受け継いでいます。それを継承しつつ、この主題を空間的時間的な軸でもって観客に「経験」させる、というところにこの映画のレベルは達しています。
ちなみに、この映画に登場するもう一匹の「サル」は、明らかに大島渚がパリで撮った『マックス、モン・アムール』へのオマージュです。考えてみれば、大島も、文明以前の野卑や野蛮をどんどん映画に投げつけてくる「野生の映画作家」でありました。『少年』や『日本春歌考』、『戦場のメリークリスマス』や『愛のコリーダ』など、むせ返るような「野生の思考」が私たちの世界を攪拌してきます。
さて、冒頭の「助けて!」という叫びは、この映画の思いがけない箇所でリフレインされます。その場面で、あろうことか、ヒッチコックの『めまい』の中の四角い螺旋階段が出現して来ます。ヒッチコックのあの螺旋階段は、「落下」の感覚とともに主人公の内なる恐怖や欲望が顕在化して来る空間として使われていたわけですが、それがなぜ、この映画にも現れるのか?
この四角い螺旋階段と同じ図柄の絵が、主人公の玄関に掛けてあるのに気づく観客は、それが主人公が美術館に作るインスタレーションアートに通底するイメージであることにも、思い当たるでしょう。「四角いスクエアの空間の中では全ての人々が平等で公平な権利を持つ」というコンセプトを持つこの作品は、その四角い空間のみすぼらしいほどの狭さによって、逆に社会的弱者を囲い込み閉じ込めてしまう。つまりは欧州のみならず今日の世界を覆う「文明の欺瞞」とでもいうべきものを、逆説的に表現してしまう。主人公の傲慢さが図らずも傷つけてしまう移民の少年の叫びが響き渡る四角い階段は、同時に主人公が自分自身の心の暗い陥穽を覗き込む空間になっているわけです。それがそのまま、この映画の絶望の深さとして、観客にも届いてきます。
だからこそ、ラスト近くで、四角いラインが思いがけない空間に引かれているのを見て、あるいは、四角い螺旋階段に対して主人公が思いがけない行動を取るのを見て、そこに世界の暗さに射し込む一条の光を見るように、私たちは感じることが出来るのでしょう。
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