写経って実はあんまり心が無にならない(良い意味で)
お久しぶりです。久しぶりにnoteを更新したいなと思っていたら、ちょっとまとめたくなった出来事があったので機に乗じ更新です。
タイトルにもある通り、実はとあるお寺さんで初めて写経を体験させていただいたんです。
結論から言うととっっっっても楽しかったです!
私、絵の模写練習をしている時とかに勝手に、「写経みたいに集中できておちつくのかな」という感じの比喩で『写経』って言葉を使わせていただいていて、でも実際にはやったことがなくて、すっごく気になっていたんです。
写経って心を無にして集中集中……ってイメージあるじゃないですか? 私はありました。
それで、実際にそのイメージで取り組んでみたんですけど、
まあ全然無心にならないんですよね。
むしろいつもより心の声がはっきり聞こえてやかましい。
今回、墨と筆を使って文字を上からなぞる形で写経させていただきました。
まず、慣れてないと筆で文字書くの難しいですね……。
線の細さ太さ、膨らみや払いや押さえるところ、などなど、お手本の字はとっても美しいのです。が、私の字は書き始めはひょろひょろな文字が踊り、途中少し慣れてきたかなっていう感じがあったと思えば、ちょっと集中が乱れたような字になり、また少しいい感じになって、また少しずつ集中が乱れ……。
ああこれ、自分の集中や思考の癖が出るなあと途中で気が付きました。
静かに、じっと集中するからこそ、心は無心になってくれず、むしろ騒がしくて、ちょっとした心の機微が字に表れ、字に現れた小さい違いに心が気付き、ちょっとした音や、人の動きで心が微妙に動いているのを感じて、気がついて。人がすこしずつ減っていって、時間をかけ過ぎかなあなんて焦る、自分のビビりな性格がおもしろかったり。少しずつ墨が減っていく様子や、書いた文字が少しずつ増えていく様子など、当たり前のことがおもしろく思えたり、筆の持ち方、呼吸、手に入る力、姿勢、窓からさす光、鳥のさえずり、とにかくいろんな当たり前に、ひとつひとつ気が付いて反応する心と文字がおもしろかったです。
それから私は、この誰に見せるわけでもない文字を、丁寧に丁寧に自分だけのために一文字ずつ書き写す行為が、時間が、とっても貴重で贅沢だなあと感じました。
だって、丁寧に文字を書くときは基本的に誰かに見せるためのものだし、絵を描いても人に見せたいと思うのです。
でも、この文字たちは完全に自分のためだけのものなんです。誰かに見せるわけでもない、それなのに今までないくらい一文字一文字丁寧に丁寧に書く。
そういえば、自分のためだけの絵って描いたことあったっけな。なんてことさえ考えました。
誰かに見せたくて、伝えたくて描く絵はとっても素敵だし、誰かに褒められたくて、喜んでもらいたくて描く絵もとっても良いものだと思うんです。
けど、私は私の描きたいような絵を私の描きたいように、それこそ今、評価や反応抜きで描けているだろうか。なんて考えがふと心をよぎりました。
もちろん今でも私は私の描きたいものを描いてはいます。でも、どこかよく見られたいと焦ったり見栄を張る自分も見つかります。そういう気持ちは当たり前のことではあるのですが、今日、自分で自分の心を見つめる機会に触れ、
評価や反応は嬉しいし大事なことでそれはそれで必要かもしれないけれど、まず何より私はこの先いつまでも私の好きな絵を、素直な心で、自分に正直にいつまでもいつまでも描いていきたいなと思いました。
そして時間が経つのはとっても早かったです。
こんな良い体験をさせていただき感謝です。ありがとうございました!