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本が私たちを読んでいる

洋書の読書会以降、洋書熱が高まってしまい、いま新たな本に手を伸ばしている。
「灯台守の話」をきっかけに知ったジャネット・ウィンターソンの「Oranges are not the only fruit」。

その本の前書きに、物語の世界に没頭しているとき私たちが得るのは「理解されている」という感覚だと書かれていた。学校教育では本は理解するものだと教わるが、実際には物語の方が私たちを理解している、本が私たちを読んでいるのだと。

これにはすごく共感した。
ある読書家の友人も、「私自身のことが書いてある」と感じる本を好んで読むと言っていた。そういう意味では、夥しい数の本の中から選び抜かれ、我が家の本棚に並んでいる本たちは自分の欠片とも言えるのかもしれない。だからこそ、本を手放す際は身体が引き裂かれるような痛みが伴う。

最近では、生涯にわたって自分の一部となるような本と、一過性の興味で手を伸ばす本の違いもわかるようになってきた。本を手に取った瞬間に電気が走るような場合もあるし、ページを少しめくって「これは私の本だ」と確信する場合もある。
繰り返し聴いても飽きない音楽と、一回聴いたらもう十分、という音楽があるのと同じ感覚。その時々の私の状態に寄り添って、お守りのような安心感を与えてくれる。

ジャネット・ウィンターソンは生まれて間もなく養子に出され、宗教的な夫婦に宣教師にするために育てられた。16歳でレズビアンの関係を持ったため、家を出たという。かなりハードそうな人生に思えるけれど、本の世界を拠り所にしていたそうだ。だからこそ、素晴らしい物語の紡ぎ手になったのだろう。

私は実の両親がいる家庭で、特に問題なく育った方だと思う。それなのに、子ども時代はいつもある種の「寂しさ」を感じていた。
特に感じたのは、暗くなった夕方に外から知らない家庭の窓の灯りを見たとき。
あたたかい橙色の光の中から談笑する声がかすかに聞こえてきて、ほんのり夕ご飯の香りが漂ってきたり。
「THE しあわせな家庭」という感じがして、そこは鉄壁の守りで隙間がなく、入り込む余地が一切ないゆえに拒絶されたような感じがした。

大人になって、いい意味でも悪い意味でもいろいろなことに鈍感になってしまったけれど、いま思えばあれは物語の生まれる場所だったのかもしれない。
ジャネット・ウィンターソンの物語を読みながら、子ども時代の私と、それを見て見ぬふりをして生きてきた大人になってからの私、その両方を同時に癒している。

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エヌ
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