日本医療の記録となった25年間。「DOCTOR’S MAGAZINE」の編集の裏側をお伺いしました!
1999年、知名度もなく経営が傾きかけていたメディカル・プリンシプル社(MP社)。社運をかけて始まったのがドクターのヒューマンドキュメント情報誌「DOCTOR’S MAGAZINE」です。記念すべき第1号の表紙は、地域医療の発展に大きく貢献した黒岩卓夫氏。MP社の創業者である井川幸広が、
3日間鞄持ちをしながら口説き落とし、表紙と巻頭インタビューである「ドクターの肖像」にご登場いただきました。続いて第2号は日野原 重明氏。当時聖路加国際病院の院長を務めていらっしゃった方です。ドクターの皆さんが尊敬するドクターが表紙を飾る「DOCTOR’S MAGAZINE」は、医療業界で次第に話題になり、そしてMP社の認知度も広まっていきました。「DOCTOR’S MAGAZINE」をきっかけに、MP社の成長は始まったのです。
25周年を迎えた「DOCTOR’S MAGAZINE」の編集の裏側を
編集室の皆さんにお伺いしました!
取材前は徹底的なリサーチと事前準備!
――――DOCTOR’S MAGAZINEといえば、ドクターの半生に焦点をあてた記事を発信していること。どこで生まれ、何を経験し、ドクターをめざしたのか。研修医時代に何を経験し、専門科を選択したのか。何に挫折し、何に自信を得たのか。伝記と言ってもいいほど、深く語られていますよね。取材前の準備はかなり大変なのではないですか?
(近藤さん)「事前準備では、ドクターが出版されている本やインタビュー記事はもちろんのこと、出演されているテレビ番組、論文、学内誌もチェックしてドクターのことを徹底的に調べ上げます。取材ごとにその繰り返しで、医療知識は自然と身につき蓄積されてきました。よく調べて取材に臨むほど話も盛り上がりますし、深い内容を伺うことができます。」
(杉浦さん)「とあるドクターに『先生は緑の名刺入れをお持ちですよね?』と聞いて大変気味悪がられたことがあります。『なんで知ってるの⁉』と(笑)学内誌の小さい記事に掲載されていた、奥様からのプレゼントを大切に使っている、というエピソードを覚えていました。ドクターにリラックスしていただけるよう、プライベートのお話も頭に入れていきます。」
――――取材は現地まで行くのですか?
(杉浦さん)「そうです。沖縄から北海道まで取材に伺います。ドクターの所属先は地域的に偏らないように心がけているので、日本全国を飛び回っています。インタビューだけでなく、掲載のオファーのために事前に現地まで説得に出向くこともありました。25周年記念号の本庶先生の取材では京都に伺ったのですが、前日に台風で新幹線が止まってしまい、金沢を経由してなんとか辿りつく…なんていうハプニングもありました。」
――――本庶先生のインタビューは先生の熱い思いが伝わってきて涙が出そうになりました。取材の雰囲気はいかがでしたか。
(杉浦さん)「実はオファーを送ってから1週間、お返事がなかったのです。諦めかけていましたが、秘書からご快諾のメールをいただき、編集室一同大喜び!取材では、本庶先生のピリッとしたオーラと外さない目線、また、時折見せるユーモラスな言葉選びが印象的でした。普段、インタビューには2時間お時間をいただいているのですが、本庶先生のインタビューはぎゅっと濃縮された30分間でした。台風で無事京都まで行けるのか、と気を揉んでいたのと本庶先生という偉大な先生に緊張していたこともあり、インタビュー終了後はどっと疲れて、早々に京都から東京へ戻りましたね…。発行後の反響はとても大きかったです。」
(近藤さん)「読者の皆さまからは『よく今、このタイミングで本庶先生のお言葉を残してくれた。』『日本の宝を歴史として残してもらえてうれしい』『医師としてもっと自分も頑張ろう』とたくさんのご感想をいただきました。ライターさんのところにも『書いてくれてありがとう』と反響があったそうです。」
(杉浦さん)「ライターさんのお話でいうと、本庶先生の原稿は安藤梢さん(@kozue_and)に書いていただいたのですが、執筆中は記憶がないほど魂と精神を削ってペンを進めたそうです。出来上がった原稿を見たとき、彼女の思いが伝わってきてほとんど赤入れはできなかったですね。それほど素晴らしい記事になりました。彼女にとっても大きいクレジットになったのではないかなと思います。」
企画は偏りがなく、業界に貢献できるように。
――――企画はどのように決めているのでしょうか?
(杉浦さん)「これが大変なんです…(笑)一般向けに紹介されている医療情報本や、最新治療や手術数が掲載されている雑誌を見たり、治療の解説本をたくさん出されているドクターを探したり…色々なところでリサーチをしています。」
(中島さん)「MP社は全国の病院とネットワークがあるので、営業から推薦があがることもありますね。何人かドクターの候補者をピックアップし、月に1回ある編集会議で議論したのち、企画は決まります。会議には発行人である社長の由良さん、編集長である副社長の牛尾さん、編集室の面々が出席し、他にもMP社すべてのサービス担当者から助言を得られるよう、レジナビ担当者や病院向けの営業などが出席します。人選は勤務地に偏りがでないようにしていますが、専門領域や大学病院、市中病院、クリニックなど病院の形態にも偏りがでないよう心がけています。また、企画については、今の医療業界での話題を取り上げるようにしていて、『外科医を志す若手医師が減少している』のが大きな話題となっているので、"外科のやりがい"を伝えるための企画を考えたりもしましたね。」
(近藤さん)「まさに12月号の特集では、外科をはじめとする"しんどい科"と言われがちな専門科の先生方にご登場いただき『自分らしいキャリアの築き方』についてお話しいただきました。医師のキャリア形成に役立つ企画で医療業界に貢献できるようにと考えています。」
――――2025年1月号で300号を迎える本誌。会員ドクターや医学生、全国の大学医局や医療機関に毎月送っていることもあり、ほとんどのドクターには認知されているそう。
(近藤さん)「ドクターの肖像やChallengerへ出演依頼をすると、ありがたいことに、喜んで受けていただけることがほとんどです。前職で一般誌を作っていたときは『忙しいから』などと断られるケースも少なくなかったのですが、本誌は『ついに自分にも声が掛かった』と言っていただけることもあります。はじめは、前職とのギャップにとても驚きました。お写真を用意していただいたり取材にお時間をとっていただいたり、ドクターにとっても負担がありますが、それでも『出演すると反響があるから』とご快諾いただけるのです。逆に『あんなにすごい皆さんが表紙を飾られているのに、私なんてまだまだ…』と断られてしまうケースもありました。」
――――断られてしまうケースがあるというのは意外ですね。
(杉浦さん)「奥ゆかしい性格のドクターだと、そうおっしゃる方もいらっしゃいますね。そんな中、20年間お願いし続けてやっと取材を受けてくださったドクターもいます。『ドクターの肖像』に掲載予定の総合診療のスペシャリストであるドクターです。20年前は総合診療という分野が育っておらず、DOCTOR’S MAGAZINEに出るとあまりにも反響が大きいため、総合診療の成長に歯止めがかかってしまうことを懸念されていました。20年間、何度かトライしましたがダメでしたね。転機になったのは数年前。MP社が主催するレジナビフェア(※)でそのドクターに講演をしていただいた際に、講演の冒頭に『あなたは総合診療に興味ある?』と目の前にいた女性の学生に問いかけたんです。すると彼女は『以前DOCTOR’S MAGAZINEで総合診療のドクターの対談記事を読んでから、とても興味があります』と答えたんです。仕込みじゃないですよ(笑)そこでドクターも感心して『僕もDOCTOR’S MAGAZINEに出たほうがいいかな~~』と冗談交じりにおっしゃって。私たちはそれを逃しませんでしたね(笑)いざインタビューに行くと4時間もお話ししてくださって。20年分の片思いが報われるようでした。ぜひ読んでいただきたいです。」
読者の方からの反響!”取り上げてくれてありがとう”
――――掲載されるドクターに助けられた患者さんも多くいらっしゃいますよね。ドクターからの反響だけでなく、一般の方からの反響はあるのでしょうか。印象的なエピソードを教えてください。
(近藤さん)「九州の病院から『病院に置いてあったDOCTOR’S MAGAZINEを患者さんに渡してなくなってしまったので再送してほしい』と支社に連絡がありました。よくよく話を聞くと本誌を持って行った患者さんというのは、掲載されたドクターのお母さまだったようで『息子が載っているそうだが、息子がまったく見せてくれない』とあちこちの病院を探し回っていたそうです。しばらくしたのち、今度は編集室に『とてもいい記事だった。親戚に配りたいので、追加で購入したい』とお電話をいただきました。ご家族なので進呈したのですが、後日、ご丁寧にお礼のお手紙をいただきました。お母さまが喜んでくださったことと、誇りに思っていただけたことが嬉しかったですね。」
(杉浦さん)「今年の6月に札幌医科大学の四ツ柳先生に表紙を飾っていただいた際は、本当に多くの反響をいただきました。四ツ柳先生は小耳症という先天性疾患を持つ子供たちに”耳”を作るスペシャリストですが、”耳”を再建したお子様の保護者の方やこれから手術予定のお子様の保護者の方から四ツ柳先生の号がほしい、と次々に連絡が入りました。本誌は書店で販売もしておらず、一般の方には目に留まらない雑誌なのですが、この号は3か月で100冊売れました。こんなことは後にも先にもないと思います。『子供を助けてくれたから先生の言葉を大事にしたい』『取り上げてくれてありがとう』『先生に耳を作ってもらったから自分もドクターをめざす』という声をいただきました。」
(中島さん)「毎月、大阪大学名誉教授の仲野徹氏がおすすめの書籍を3冊紹介する『押し売り書店 仲野堂』というコーナーがあります。ここで紹介された本が突如本屋で15冊ほど売れる、というケースもありました。どこでどういう反響があるか分からないですね。いずれにしても嬉しい反響です。」
25年にわたる日本医療の記録。これからもそうありたい。
――――最後に、DOCTOR’S MAGAZINEのこれからを教えてください。
(中島さん)「ドクターの皆さんに良い雑誌として認めていただいているので、業界に貢献できる雑誌を作り続けたいと考えています。進みたい専門科があったとしても、懸念点をぬぐいきれず諦めてしまう…そんな研修医の方も多いのでそういった懸念点を払拭したり憧れが持てたりするような情報提供を行っていきたいです。この方向性を保ちながら『DOCTOR’S MAGAZINEのこの記事を読んで、自分はこの専門科を選んだ』という方を増やしていきたいですね。」
(近藤さん)「Challengerの取材では『表紙に載れるくらいの活躍をするので見ていてください』『ドクターの肖像に出演することを目標に頑張ります』と言っていただけることがあります。それは大変嬉しいですし、そう思ってもらえる雑誌であり続けなければならない、と気が引き締まります。また、患者さんのために挑戦し続けるドクターのお話を伺うと毎回、本当に感動します。そんな熱い想いと活動を多くの読者に届けることが本誌の役割だと思っています。やはりMP社の本業は、ドクターのキャリアに関わる部分なので、そういった意味でも業界に貢献できる雑誌でありたいです。」
(杉浦さん)「あるドクターに『DOCTOR’S MAGAZINEはまるで日本医療の記録だね』と言っていただいたことがあって。25年間続けていると、亡くなっているドクターもいらっしゃるんですけど、その方の言葉を残している責任もあります。25年前の医療は今と全然違いますし、ここからの25年もAIやロボットが台頭してきてまた想像できないぐらい変わっていくと思います。そういう日本医療の記録として続けていきたいですし、日本にはこんなに素晴らしいドクターの皆さんがいる、ということを残していきたいです。それから、他の医療メディアがほぼデジタルになっている時代に、ドクターの皆さんから"絶対に紙での発行を辞めないで"と言われているので、紙での発行もできるだけ続けていきたいです。」
25年間、ドクターの半生を綴ってきたDOCTOR’S MAGAZINE。
"お医者さん"というと、小さいころから英才教育を受け真面目に勉強し真面目に大学を卒業し、あまり挫折もなく人生を歩んできた方が多いのでは、と思っていたのがまったくの見当違いでした。"お医者さん"もひとりの人間。医学生時代は毎晩飲み明かしていた方もいるし、患者さんが亡くなったことに傷つきトラウマを抱えた方もいる。むしろ志が高い分、色んな挫折を経験していらっしゃる方がいます。色んな人生を抱えた方が日本の医療業界を支えています。私はドクターではないですが、DOCTOR’S MAGAZINEを読むと、人生に目的を持ち頑張らないと、という気持ちになります。また、いざ自分や家族の身に何かあったときのために名医をたくさん覚えておこうとも…。
医療に携わる方も、そうでない方も、人生の道しるべに。
編集室が愛を込めて制作しているDOCTOR’S MAGAZINE、ぜひお読みください。■CR
CREEK & RIVER 公式note編集部 YM
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