「実用の中の美」は生活の中で


[「民藝100年」展示会](https://www.momat.go.jp/am/exhibition/mingei100/)にいってきて、感じたこと。
あ~、この展示も意図の作り方が違うよ!ということ。

民藝って、私の中では生活雑貨という感じ。
生活雑貨が美しいことを私は好む。
陶磁器も大好きだし、巧みの技があふれた伝統工芸品も素晴らしいし使いたい。
これらを私は「使いたい」からこそ、自分の目にかなったモノであることを条件とする。

定義では・・・ 民藝運動は、1926(大正15)年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動です。当時の工芸界は華美な装飾を施した観賞用の作品が主流でした。そんな中、柳たちは、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝(民衆的工芸)」と名付け、美術品に負けない美しさがあると唱え、美は生活の中にあると語りました。そして、各地の風土から生まれ、生活に根ざした民藝には、用に則した「健全な美」が宿っていると、新しい「美の見方」や「美の価値観」を提示し (日本民藝協会HPより)

巧の技術により生まれた生活道具、そこに「美」を見出す必要があるのだろうか?
もちろん、「実用の中にある美」があるのは認める。 が、展示を眺めていると、何か釈然としない。
そう、これら生活雑貨は展示されるものではなく、生活の中で使われてこそ美となるのだ。
生活雑貨を民藝と云うのはいかがなものか?
民族芸術というのならば、芸術であるためにはそこに「真理」が入っている必要があるけど、その「真理」がそこにあるか?
使用目的にあった形状と民族的文様が刻まれたものが、真理なのだろうか?
美なのだろうか? 実用の中にある「美」をみるのは生活のシーンにあってこそ、展示した瞬間にそれらは死んでしまう。
実用の中にある「美」は生活の中にあってこそ輝くのだ! これらを研究した「民藝運動」は価値があるものだったとは思う。
だからこそ、彼らは「読本」を沢山執筆したのだと思う。

だから、こういった展示は、「ただ並べる」だけの展示ではなく、 それらの品々が使われた生活シーン、文化をみせていく必要があるように思った。
民藝を通して、その民族/地域が持つ生活習慣/様式を分析する文化人類学の部分を紹介してこそ、 これらの民芸品(生活雑貨)を展示する価値があると思った。
そこをみせてくれたら、展示品に興味をもって鑑賞できたはずだ。
だが、モノだけ並べられても真髄が感じられない。

蛇足だが、民芸品にまじって、民藝運動をしていた人物たちの紹介(いでたち、や、行幸、室内家具)があったが、彼らのメンタリティが個人的には好きではない。
上手く説明できないのだが、この時代特有の(作家、収集家などの)コミューン的集いが 「俺達、審美眼あるぜ」「人とは違うんだ」「時代の先端いっているけど、ついてこれないだろ」的な精神性を仲間と集うことで主張しているような気がしてならないのだ。
結果、この展示会は、私には、民藝運動家たちのメンタリティが浮き彫りにされることは出来たが、
民藝を通して、その民族/地域が持つ生活習慣/様式を分析する文化人類学の部分を紹介する。が出来なかった、ちょっと的外れな意図をもった展示会のように思えた。