超感覚者★Motoko
10年近く面倒を見ている妹分。(ヘッダーの絵は彼女作) その彼女と話していたら、この10年私がやってきたことは、彼女の中にしっかりと根付いたことを感じて、「育てる」とはこういうことだな。というのを実感するとともに、少し回顧録を作りたい気持ちになった。彼女に施してきたことをカリキュラム化したら、芸術表現をする人の土台作りとなるだろうな。と・・・ 最初は仕事上の預かりだったけど、その後は個人的に・・・今では、一緒に「芸術あそび」をしているね。という話しをしていた。 礼儀作法か
「宇宙の摂理」を基礎編、初級、初中級と学び実践し、そして中級でひたすら自分を変化成長させるためのエクササイズを重ねるトレーニングをしてきた生徒さんがいる。 何のために、「宇宙の摂理」を学ぶのか?という問いのほぼ全員一致の回答は、”自分自身の成長”に他ならない。 しかし、その先の問い、「では、成長したらどうしたいのですか?」「何の為に成長した自分でいたいのですか?」というのは、人それぞれの回答があるはずだ。 前述の生徒さんの回答は、「芸術表現する自分のため」だ。 摂理を使っ
帝劇で上演中の「ムーランルージュ」を観劇。 今回は、いくつかの役がダブルキャストで、たくさんの組み合わせがあるので、私が見た日がたまたまこうだった前提での、観劇で思ったこと。 バズ・ラーマンの映画が好きで、ロミジュリもムーランルージュも好きだった。 けれど、当時(2001年)はこの映画、全然ヒットしなかった。 それなのに、20年近くたってからのBWミュージカル化。 それがそもそも疑問。 それはさておき・・・ ミュージカルというのは、どれか一つだけの才能があるだけでは、ど
出光美術館の「琳派のやきもの」展に行ってきた。 琳派好きとはいえ、やきものはピンとこず。(今回取り上げられていた乾山は光琳の弟) 足をとめてしまうのは、いつも通り、宗達、光悦、光琳。 光琳は、好き!となるわけではないが、どれも「上手いな」と思わされる。たいていどの作品であっても遠くからもわかる一流の作品のオーラがすごい。 琳派の中で私として最高なのは、宗達の下絵に光悦の書(和歌)の組み合わせ。これは、色々な作品が残されているので、いろんな美術館に収蔵されていることが多い
「宇宙の摂理」受講生さんから、「『アルケミスト』という本を読んでみてほしい。なんか宇宙の摂理と同じようなこと言っていると思うので」というリクエストをいただいていたので、この度、読んでみた。 ”物語仕立ての生き方指南書”になっている。 受講生さんは、「主人公が気づき、選択していく道がすべて宇宙の摂理的」というように感じたんだろうが・・・ 講師視点で細かくみると、100%同意はできないかな。 この主人公のように、”導かれていくことがその人の道として一番最善である”となるには、
子どもの頃から成人するまでピアノを弾いていた。 家にあったのはkawaiのアップライトピアノ。 それから20年以上たった時に、仕事上、舞台公演の稽古ピアノを弾くこととなり、久しぶりに鍵盤にふれた。 その時は、kawaiのグランドピアノだった。 出入りのあるピアニストの方が中古ピアノが並ぶ倉庫にいって選んできてくれたというだけあって、とてもキレイな音がした。 このピアノをその後5年程、弾きまくっていた。 そして、グランドピアノに開眼してしまったのだ。 アップライトと違うタッチや
ヨネ・ノグチの詩歌とピアノ即興
自分の内側を変えるのに早道はないものか? ということで、自身で活用していたのが、「香水」 15-6年前に、あるメゾンの香水と店員さんに出会って、香水のもつパワーに興味を引かれた。 その店員さんの香りへの造詣は深く、古今東西の香りについての知識があった。そのお話をきくとともに、彼女が面白い話しをしたのだ。 「どういう人になりたいですか?香りはある人物設定をしてその人物を彷彿させるように調香していくものなんです。だから、こういう人物になりたい!というのがあるならば、その香りをみに
「宇宙の摂理」という大きな概念を体系化しセミナーを構築した。 そこでは、「科学的」なことの対となるような概念をお話するのだが、 私自身は偏らないためにも、「科学的な」ことにも触れるようにあえてしている。 ただし、何に触れるかは選ぶ。というより、どの科学者が言っていることか?を選ぶ。 科学者であっても、超一流になってくると「科学だけが絶対だ」という視点ではなく、「科学をこえた何かわからないものが働いている」という観点ももっている。 そういう先生方々の発言からは、「宇宙の摂理」を
よくきくフレーズに「筋肉は裏切らない」というのがあったけれど、本当にそうだなぁ。と思えるようになったので、その記録をば・・・ 幼稚園の頃からずっと踊っていた。途中休止中もあったけど、何かしらの踊りをずっとしていた。歴でいえば20数年。 ある事件でパタっとやめてしまってから、20年。 そんな中、思い残しがあるダンス、アルゼンチンタンゴをちゃんとやろう!と決めたのが2019年終わり頃。(このダンス、ペアダンス故、始めては止めてを3,4回繰り返していた) 女性はヒールシューズで
自分を卑下する。 どういうイメージをもつだろう? もしくは、どういった時に、自分を卑下してしまうだろう? 自己価値が低い。と関係するだろうか? 辞書によると、 卑下:自分をあえて低い位置に引き下げてへりくだること らしい。 ということは、自分の意思をもってあえて"低い位置にへりくだる”のだから、「自己価値が低い」とは同義語にはならない。 「自己価値が低い」人というのは、無意識に”低い位置に自分を設定している”のだ。 ”あえて低い位置”におくというのは、どういう時か? ・
伺ったことがない喜多能楽堂が、改修に入るというので、「その前に一度ご覧になった方がよいですよ」という能楽囃子方の知り合いの方に言われていたので、滑り込みセーフで見学会に行ってみた。 釘一つ使っていない能舞台は宮大工の手のものだという。 観劇でいくつかの能楽堂は出かけているが、開演前の時間に能舞台そのものをじろじろと鑑賞ことはほぼ出来ない。仕事で使ったことがある能舞台は表裏隅々までしっているだけに、「こちらはどんな?」と興味津々。 能楽師の方が客席に待機してくださり、【質問
今月は、「和」の世界の対照的な二つの出し物をみた。 一つは「芸術」に昇華されていて、もう一つはエンターテーメントにすらなりえていない残念なもの。 玉三郎の素踊りと夜空 玉三郎丈の踊りは30年位見続けているけれども、素踊りは皆無。それが今回、見れるということで、「お話&素踊り」の全国ツアーの1箇所にいってきた。 お話もとても上手で興味深い話しもきけた上、なんと、「日本振袖始」での奈落での<姫→大蛇>に10分で早変わりする様子のビデオを玉三郎の解説付きでみたり、多いに楽しめ
私が「コンサル業」を名乗っているのは、”課題発見”し”方向性を指し示す”ことをしていることに起因している。 しかし、普通にある経営コンサルの方とは一線を画し、数字をみたり、経営の教科書的な視点からアドバイスをすることはない。 私が使うのは、私の能力だ。 超直観、超感覚という二つの稀有な能力をもって生まれたからこそ、それを使っている。俗に言う「目に見えない情報」を拾ってきて、そこからのアドバイスをしている。(ま、違う言い方をするならば、絶対AIには出来ないアドバイスってことです
パーソナルコンサルという相談業をしている。 ほぼ経営者の方の公私に渡る相談をしているのがメインだったが、パンデミックを機として「目覚め」のフェーズに時代が移るのを感じ、「個人」の方の自己変革のサポートもするようになった。 といっても、だれかれ構わず「おいで~!」という類のものではなく、「時代の変化に合わせた自分で生きていきたい」という意欲のある方限定だ。 コンサルという仕事柄、カウンセラーと違い、その人の課題をみつけ、それをどう変化させていくことで、その人がバージョンアップで
ようやく公然と人と会うことが解禁されたような昨今。集まりが増えてきたので、新しい交流、古い交流の中で、改めて「人」にフォーカスして思考している自分がいる。 例えば、エピソードトークが披露されている雑談シーンにおいて、私にとって「面白い」「興味もちながら聞ける」会話をする人という人は その事象を自分の中に一度取り込み、咀嚼して、自分のフィルターを通して思考し、何をうけとったのか?何が疑問なのか?何が自分にとって興味があったのか?などを話してくれる人だ。 一方、つまらないなとい