「働くひとの芸術祭」はじめます⑤-アートの力で「Horizontal」な世界をつくる-
「人は『働く』『生きる』を自分の作品として価値生成できるのか」という問いを立てて書いた大学院の修士論文をかみ砕いてお伝えしている本連載。前回は、「虫の眼」「鳥の眼」「魚の眼」で世界の動向を考察した。今回は、
人間性を回帰させ「自分の働き方や生き方を自分でつくる」「自分ひとりでは働き方や生き方をつくることはできない」という一見、二項対立するかのような2つの命題についてアートがどのような価値生成を行っているのかを紹介していきたい。
アートは社会を映す鏡
アートの歴史は、そのまま社会との関係性の歴史とも言える。2度の世界大戦の中で、アートは否が応でも時の権力や社会と関わらざるを得ない状況に身を置き、第二次世界大戦後は、アートの概念を拡張する潮流が生まれる。1960年代には、ヨーロッパにおけるパリ五月革命、アメリカにおけるベトナム反戦運動そして日本でも安保運動など世界中に広がった権威・権力へ反乱に呼応するかのようなアートの動きが発生した。1990年代に入ると、多文化主義の浸透によって他者との関係性への関心が高まる。1998年、フランスのキュレーター、ニコラ・ブリオー(Nicolas Bourriaud,1965-)が自著『関係性の美学』(1998年)で、「人間の相互行為を理論的地平とするアート」を「リレーショナル・アート」と名付けたことでジャンルとして発生した。ちなみに、ここでの「関係性」とは2つの意味を持つ(『現代美術史』より)。第一は作品と鑑賞者の間の関係性、第二は鑑賞者の間に生まれる関係性である。
更に2000年代に入り、作品やプロジェクトを通じて社会的・政治的な問題にアプローチする芸術的実践を指す「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)」という概念が生まれた。このSEAについては「敵対とコラボレーション」に分裂していると言われている。前者を代表するのはグラント・ケスターで、彼はアーティストと非アーティストを分かつヒエラルキーを破壊する対話やコラボレーションを重視した「互恵的開放性」を提唱し、後者を代表するイギリスの美術史家クレア・ビショップはアート愛好者によって構成される排他的空間を問題視し、そこに切り込み隠ぺいされた社会的問題を露にする「敵対」の概念を提唱する。
ここでは、1960年代の世界同時多発的に起こった若者たちによる権力への反乱の時代に生まれたSEAの先駆け的な存在とも言えるシチュアシオニスト・インターナショナル(SI)の活動と理論的背景を紹介した後、VUCAの時代におけるSEAの実践事例を通じて時代的背景に即した「アートの価値生成の在り方」「アートによる関係性のつくり方」について解き明かしていきたい。
1968年の社会とアートの関係性
シチュアシオニスト・インターナショナル(Situationist International=国際状況主義連盟、SI)は、前衛芸術家、知識人、政治理論家によって社会革命的国際組織でヨーロッパにおいて1957年から1972年まで活動を行った。その表現手法は絵画、写真、グラフィック、落書き、映画、コミックなど多岐に渡り、その機関紙に掲載された文章は自由に転載、翻訳が許可され後のフリーカルチャーやオープンカルチャーにも影響を与えた。その思想的・理論的バックボーンとなったのが思想家・映像作家のギー・ドゥボール(Guy Debord,1931~1994)であり、著書『スペクタクルの社会』(1973年)はフランスを中心とする若者に熱狂的に読まれ五月革命にも大きな影響を与えたと言われる。
ここで「スペクタクル」とは「見世物的」という意味で使われ、経済や商品が労働力や生き方を支配する状況やマスメディアを指すとされる。奇書とも言うべき不思議な書物で体系立てられた理論が展開されているわけではない。9つの章に分けた短い221の文章(テーゼ)が羅列されている。そこに立ち現れる文章は現在の世界の状況を予言しているようでもある。
「己の生産物から分離された人間は、自己の世界のあらゆる細部を作りだす
ことにますます意を注ぎ、その結果、ますます自己の世界から分離され
る」
「資本主義的生産は空間を統一し、その統一の過程は、同時にその広がりに
おいても程度においても凡庸化の進行する過程でもあった」
「こうして、現代人はあまりに観客的(スペクタトゥール)であるという
ことが原因でスペクタクルが生まれたのだとされる」
現在の社会とアートの関係性
現在、我々を取り巻く社会環境は、政治的権力というわかりやすい対象に対抗したシンプルな時代から飛躍的に複雑性が高まり、その「見世物」度合いを増している。VUCAと言われて来た時代が新型コロナや新たな戦争によって拍車がかかっているいま、アートはどのように社会との関係性を生成しようとしているのか。それを「非西欧的」な手法で実践しているのが、インドネシアのアート・コレクティブ「ルアンルパ(ruangrupa)」だ。アート・コレクティブとは、異なるバックグラウンドや個性を持つ3人以上のアーティストによる共同制作を指す。このような形態は1990年代から徐々に活発化して来たが近年になって理論化されたことでより注目度が増している。
Amazon | The Collective Eye: In Conversation With Ruangrupa (Thoughts on Collective Practice) | Garaudel, Dominique Lucien, Nilsson, Emma, Kliefoth, Matthias | Criticism
ルアンルパは、ジョグジャカルタの美術学校に通っていた学生同士のネットワークによって2000年に結成された。社会学、政治、テクノロジー、メディアなどの多様な分野を横断しながら、インドネシアにおける都市問題や文化的課題に対応する活動を行って来たが、その活動が注目されたのは、2001年の「JakArt@展」だ。当初は6名のメンバーだったが徐々に拡大し、2016年には他の2つのコレクティブと共に活動拠点を敷地面積6,000平方メートルのサリナ倉庫システムに移し、若者の文化ハブとして重要な場所となっている。2018年にはアートと教育に特化したプログラム「グッスクールGUDSKUL」を開始した。
さてルアンルパは、2022年6月から9月にかけて開催された国際美術展ドクメンタ15のディレクターに選出された。この芸術祭は、ナチスドイツによって退廃芸術とされた20世紀の前衛芸術の名誉回復と回顧を立ち上げの趣旨として、1955年以来、ドイツのカッセルで数年に1度開催されて来た。その特徴は、ディレクターに任命されたアーティストが統括することだが、アジア出身者及びアート・コレクティブが選出されるのは初となる。
ルアンルパは、同美術展のコンセプトとして《ルンブン》(lumbung)と《No Art, Make Friends》を掲げた。《ルンブン》とは、インドネシア語で共同体の交易のために収穫した米を貯蔵したり、仲間や困窮者の緊急支援のために使用したりする共同倉庫のことを意味し、共有されるアイデア、物語、エネルギー、時間その他のリソースの集合体のメタファーとなっている。それは、アイデアや知識などのリソースを共有して来たルアンルパの実践そのものを言い表したものと言える。また、ルアンルパのホームページでは以下のように説明されている。
「ドクメンタが戦後ヨーロッパの傷を癒すという崇高な意図のもとに
生まれたとすれば、このコンセプトは植民地主義、資本主義、家父長制
などに根差した幾多の傷を癒すという形に美術展の意図を拡大したもので
ある」
ドクメンタ15のハンドブックのintroductionはルアンルパの「高らかな闘争宣言」となっている。彼らはドクメンタからディレクター就任のオファーを受けた時、ドクメンタのシステム、つまりヨーロッパ的、組織的なそれに統合されるのではなく、自分たちの旅にドクメンタを招き入れることを提案した。なぜなら、ヨーロッパ的なシステムは「非常に競争的で、世界的に拡大し、貪欲で資本主義的であることが証明された搾取と排他的な」それであるからだとする。その上で、彼らは何百万もの神経や動脈から成る身体的なシステムの中で「ツボ」を発見し全体的に癒す東洋医学的なアプローチを採って、2020年以来、ネットワークを生成して来た。そして2022年の開催本番は「(西洋と東洋の)異なる現実を互いに衝突させ、異なる方法が可能であることを示す試み」だと位置づける。
この「ruangrupa」という名称は、結成にあたって策定した活動のコンセプトを表している。「ruang」とは「空間」、「rupa」とは「見える」あるいは「形状」を意味する。つまり「(見える)空間」ということになるが、物理的な空間ではなく精神的な空間あるいは「余裕」を意味する。それを西欧のアーティストのようなスタジオとは異なる形で具現化したものが「ruru house」である。あくまで地域に根差し、近隣の人たちとの親しい関係性をつくりながら、生活の中で起こる日々の問題を解決するのが彼らの手法であり、ドクメン15の会場となったドイツのカッセルでも実践された。家族を帯同し、カッセルに「短期移住」したのだ。
だが、単に仲良くなるだけではない。彼らは衝突を公にして避けようとしない。一緒に遊び、食事をするからこそ互いに助け合い信頼し合うことができる。プロジェクトを行うことはあくまで手段(ツール)であり「friendship」を育むことこそが目的なのだと考える。そして、こうしたコミュニティの中でアイデアはプレゼンテーションではなく会話の中から自発的に生まれて来る。その様子を彼らは以下のように表現する。
「蛇口をひねり、水が流れるままにまかせ、何がどこに向かってどのよう
に流れて行くのかを見つめるだけだ」
また、彼らの活動の大きな特徴のひとつが、メンバーにベーシック・インカムが支給されていることである。これによって生活が保障され、メンバーが自由に活動することが可能となる。ルアンルパは、これからの社会のコミュニティ運営の在り方を指し示す社会実験も行っている。
lumbungコンセプトを引っ提げて西欧のアートワールドに乗り込んで来たルアンルパは「毒」のような存在かもしれない。彼らはキュレーター、アーティスト、オーガナイザーやコレクターといった権力構造から成立するアートワールドに公然と反旗を翻えす。アーティストに「作品」という結果や成果のみを求め、その価値がアーティストとは切り離された独自のルールで決定される西洋的なアートワールドとは異なり、ドクメンタ15に至るプロセスの中で、持続的なプラットフォームの形成を目指す。ドクメンタはゴールではなくスタートなのである。
ルアンルパとは何か
ルアンルパという存在が我々に投げかける「問い」とは何か?それを、インドネシアの歴史や環境から更に探ってみたい。「インドネシア」の歴史は比較的新しい。17世紀以来、オランダの植民地だったこの土地が独立宣言を行ったのは1945年8月17日であり、スカルノ政権が誕生した。スカルノは共産主義、宗教、民族主義の3つの勢力のバランスの上に立った自国優先のナサコム(NASAKOM)という体制によって長期政権を築くが、1965年9月30日に起こった兵士グループによる陸軍首脳部殺害事件と、その後に起こった数十万人の共産党員およびその支持者の虐殺という出来事によって失脚する。それを引き継いだのが、陸軍首脳を殺害した兵士グループを鎮圧したスハルトだった。スハルトはスカルノの方針を転換し、西欧からの融資と資本を受け容れ破綻した経済を急速に立て直して行く。その一方、開発独裁の色彩を強めスハルト近親者が利権を独占する一方、言論の自由も徹底的に弾圧される。そして、蓄積されて行った市民の不満が、1997年のアジア通貨危機によって爆発し、1998年3月、スハルトが大統領に七選されるとジャカルタを中心とした各地で暴動が発生し退陣した。だが、ジャカルタだけでも1000人以上が死亡した。
この「New Order」と呼ばれる1998年の出来事あるいはそこに至る抑圧の歴史がルアングルパの原点(彼らは「創業の父」と呼んでいる)となっている。1998年のインドネシアは、西欧・日本の1968年に相当する。スハルト政権下、学生は反政府運動の急先鋒であり、都市部のアートスクールは解体されて地方に分散配置された。また、学生が反旗を翻したのは政府や軍だけではなく、権力に洗脳されて来た旧世代の「価値観」であり、活動を通じて培われたものは「ただ反対するのではなく、より良い世界をつくるために行動すること、追従せず常に批判的精神を持つこと」だと彼らは語っている。
加えて、2000年代初頭における現代美術市場の拡大とそれがインドネシア芸術界に及ぼした「ブーミン(booming)」という現代美術ブームの影響がある。具体的には中国前衛美術ブーム、インドネシア初の直接大統領選挙によって確立された民主主義体制そしてクリスティーズ、サザビーズといった二大オークション会社のアジア進出である。これによって美術市場というものが確立されていなかったインドネシア市場に激しい価格変動が起こり無秩序状態が生まれた。「NewOrder」と「ブーミン」という2つの出来事を通じて、アーティスト同士あるいは他職種との協働によって生き残りを図ろうとするインドネシアのcollectiveの多くが誕生し、ルアンルパは中央主権的な組織の在り方を頑なに拒否し、個々人の資源を持ち寄ることを重んじる理念を形成する。そして「異なるものの衝突や地域の文脈の間に橋を架け、お互いから学び、誰もがこの適合と同化の強制的な仕組みに苦しんでいることを認識する」ルンブンというコンセプトが生まれた。
インドネシアは2025年までに世界の10大経済大国へのランクインを目指しているが、それによって貧富の格差の増大も起こっている。ルアンルパが拠点を置くジャカルタは、都市への人口集中、格差、環境問題、多様性・・世界が直面する課題と可能性が凝縮されたエリアなのだ。インドネシア人としてのアイデンティティという軸をぶらさず、常に地域やコミュニティに根づき、多様なリソースを緩くつなぎながら、持続性のある活動を生み出す彼らの活動を「アジア的」「反西洋」という枠で括ることは表面的な理解にすぎない。歴史、地理、文化、人種、政治、経済、宗教などの多様な視点で見直した時、その活動やメッセージは普遍的な意味を含んでいる。
世界を「ヒエラルキー」から「Horizontal(水平)」へ
アジアの中でも、中国がある東アジア、インドがある南アジアと比べて東南アジアは、相対的に注目度が低いエリアである。しかし、文化、言語など多様性に富むと共に、それぞれの国が異なる文化圏への「入口(ゲートウェイ)」でもある。フィリピンがアメリカのゲートウェイだとすれば、インドネシアやマレーシアはイスラム圏のゲートウェイ的な役割を果たす。逆に、いずれの国も知識階級は英語を解するため、言語を通じた一大ネットワークを形成している。そして、日本との関係性も良好だ。しかし、このエリアを考察する時に忘れてはいけないのは、東南アジアの多くの国を日本が占領していたという事実である。
1942年から1945年まで、インドネシアは日本軍の支配下におかれ軍政が施行された。その間、農作物を強制的に拠出させ飢餓が蔓延し、言論統制や日本文化の教育なども行った。一方、戦後補償としてのODA(政府開発基金)によってインドネシアのインフラは整備された。インドネシアに限らず、東南アジア各国の日本に対する好意的な姿勢は、こうした歴史と複雑な感情を乗り越えて来た上のものなのだ。ルアンルパの柔軟で開放的な活動も同様に、インドネシアが辿って来た歴史に潜む「憎しみ、悲しみや怒り」を「友情、喜びや楽しさ」へと昇華したものだ。だからこそ強さと説得力を持つ。
私がアジア駐在時代に得た大切な価値観は、異なる文化に対する「respect(敬意)」だ。その認識を具現化する形で、アジアネットワークのための人材育成の取り組みとなる企業内大学を設立した。その構想を練っていた時のこと。クアラルンプールのホテルで見たNHK ワールドの番組の中で、ノーベル賞作家の大江健三郎さんが中学生たちへの講演を行っていた。大江さんは、9.11 に触れ
「ワールドトレードセンターが崩れるのを目にした時、自分は作家として、上へ上へと目指すヒエラルキー社会を変えることが出来なかった敗北感を感じた。貴方達は、そのような世界ではなく Horizontal(水平)で平等な社会を創ってください」
と話されていた。その時、私は企業内大学構想の意味と可能性を確信した。ルアンルパという運動体もまた、Horizontalな世界をつくる試みなのである。次回からは、これまでの考察を踏まえ、それを「実践」する試みを紹介する。
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