ある芸術家の見事な幕引き-「田名網敬一~記憶の冒険」を鑑賞して
作家としての集大成ともいうべき回顧展の企画・制作を行い、その開幕と同時に世を去る。見事というしかない人生の幕引きである。国立新美術館で開催中の「田名網敬一記憶の冒険」を鑑賞した。
田名網は1936年(昭和11年)生まれ。アートディレクターとしてキャリアをスタートさせ、日本のポップカルチャーの牽引役のひとりとなり、その時々で作風を変化させて来た。
日本を代表するアーティストの回顧展は当初、私にとって「観なければいけない」ものだったが、NHK・日曜美術館の特集を観て改めて「是非、訪れたい」ものとなった。
最近、未来への想像力を持つためには過去のことをもっともっと知る必要があるのではないか、という想いが強まっている。戦前・戦後を生きた作家の作品を通して、先人たちがたどった心の軌跡に触れたいと思ったのだ。
果たしてその期待通り、年代ごとに変化する田名網の作風に接することができる内容となっていた。
初めて世間の注目を浴びる1960年代の時は30代。既製服をモチーフとしたシルクスクリーン作品のタイトルは「Order Made!」。そこには当時のアメリカを代表する作家、アンディ・ウォーホルによるポップアートの強い影響を受けているのがわかる。
国際展で受賞した「NO MORE WAR」シリーズが発表されたのは1960年代後半。アメリカではベトナム戦争反対運動が、日本では60年安保闘争が、フランスでは5月革命が同時多発的に起こり、世界中の学生や若者が体制への「NO!」を叫んだ時代だった。
1975年に、田名網は日本版「PLSYBOY」の初代アートディレクターに就任するが、この頃からやがて代名詞となるコラージュの作風が生み出されていく。
第2次世界大戦の終戦によって日本に流入したアメリカという国のきらびやかな文化への抑えきれない憧れと、それをどう咀嚼(そしゃく)して良いかわからない想い。
60年代から70年代までの作風には、当時の日本人の多くが抱いたであろう複雑な感情が反映されているように見える。しかし、心の奥にあったものが晩年になって顕在化して来ることになる。
1980年代、40代の時に中国を訪れたり多忙のあまり生死の境をさまようほどに体調を崩したりする中で、田名網の作風は、カラフルなアメリカンテイストから自然をモチーフとしたものへと突然、変貌を遂げる。
この時代には、生命力を象徴する松の木をモチーフとした一連のシルクスクリーン作品群(これらによって、私は初めて田名網の名前を知った)や、病の体験からインスピレーションを得た無意識を造形化した立体作品群が生み出されている。
日本が高度成長期を経てバブルへと突入していく時代。熱に浮かれる一方で、心が疲れ切った日本人の心のあり様が形になっているようだ。
1990年代、50代に入ると田名網は自らの記憶を検証するようなドローイングに没入するようになる。「日曜美術館」の中で、田名網は絵を描くことが苦手だと語っている。だからこそコラージュという手法に行きつくのだが、50歳という人生の後半に入って改めて苦手なものに挑戦したのだろうか。
時代はバブルが弾け、社会全体が夢から覚めたような内省の状態だった。そして、田名網の作品にはその後繰り返し登場する「橋」のモチーフが現れるようになる。
30年後、コロナの感染が拡大しすべての予定が消えた再びの内省の時、田名網は自宅でピカソをモチーフとした作品を写経のように延々と描き、その点数は膨大なものとなっている。この時、80代。それでもなお、作家としての進化を目指していた。
シルクスクリーン、コラージュ、ドローイング・・・・作品群を観ているうちに横尾忠則との強い共通性を感じた。横尾は田名網と同じ1936年生まれ。戦争を体験し、戦後アメリカ文化の洗礼を浴び、デザイナーとしてスタートしてアーティストに至る2人の軌跡は相似形のようだ。
そして2010年代以降、70代半ばとなって、それまでの軌跡と記憶が統合されたような目もくらむような作品群が生み出されていく。田名網はこのように語っている。
夢と記憶が微妙に重なり、組み合わされ、編集の工程を経て新たな記憶として蘇る。
私にとっての夢と記憶は、あらゆるアイデアの源泉として、絶えることなく強い波動を送り続けてくれる、貴重なバイブルなのである
展覧会のスタートは、遺作となった本年の作品だ。
俗なるものと聖なるものの境界であり、今生の世界と死後の世界を分けるのが橋だとすれば、その一方で出会いの場所ということもできる。橋の向こうから幽かに響く歌声は、誰が歌っているのだろう。その姿を見極めたい。
戦前と戦後、アメリカ・アジア・日本の文化、生と死、デザインとアート・・・さまざまな橋を自在に渡り続け、膨大な情報を編集しコラージュし続けた作家は、橋の向こうの声の正体を突き止めたのだろうか。
人生は綺麗ごとばかりじゃない。エロもグロもナンセンスもひっくるめて作品だと思えばいい。過去がいつでもそうであったように未来も混とんとしている。「それでいいのだ」と笑っているようである。