體と骨休め
かつてカラダのことを體という漢字を当てていた。
故に、カラダを休めることを骨休めとは中々的を射た言い回しではないか。
カラダを骨+豊と書くが、豊の方の旧字体の意味は“高坏(器)に供え物を盛ったものを意味し、新字体の豊富やゆたかと言った意味とは少し異なる。(新字体の意味は旧字体が内包されていると思うが・・)
しかし、かつての日本人は骨の機能の奥深くまでわかっていたかどうかは判らないが、今より明らかに物の本質を的確に捉えていたと言って良いことが過去の文献などを見たり、残っている資料諸々からもわかる。(なぜ体が體から骸/躯/身(むくろ)・体・軀になったのかの変遷は興味がある)
そういえば、小泉武夫のエッセイに“猪鮓”の作り方などが解説されている一幕があるのだけど、当時の人たちが猪の生肉に往々にして寄生虫やサルモネラ菌・トキソプラズマ、E型肝炎ウィルス他いろんなものがあるが、それを作る際に肉を炙ってから仕込むというのは、たまたまのものか、わかってやっていることかはどうも明白だと思うのだが、こう言ったことと“體”のことは同様に思えてならない。(熟鮓の類は以前にも触れたが、河豚の卵巣にある猛毒(テトロドトキシン)が糠床で時間をかけて糠漬けにすることで、消え去り美味しい酒肴になるのもまた同様。これらについても未だはっきりと解明されるに至っていないというのも、なにかの理由があるようにも見えて仕方ない。)
出張日程を終えて、空港の飛行機の出発待ち。
飛行機前後の移動と待ち時間・・もう少しどうにかならないものだろうか・・