問題の根から考えること
便利とは一体何か。
誰の目線で言っているのか、そもそも相手の根元で起こっている本質的事態に思考を巡らせた上でプロットされたものか・・
僕がこんなことを考えるキッカケになったのはMITのヒュー・ハーが開発を続ける義足を知ってからだ。
もう10年以上前に、彼の活動を知ったこと。
そして多くの記事を見ながら、“その視点”でいろんな人の為に作られているプロダクトを見回した時の違和感は未だリアルな感触をもって覚えている・・
某社の車椅子などただ車椅子マーケットを資本というドラッグをこれでもかと吸わせべちゃついたものに仕立てただけだ。粗方の義手にしても同様のことが起こっている中に、しっかりと“自分事”として捉え、己を実験台にした上でどうするかを気分や感情の揺れにまで言及し進めている唯一のプロダクトに思えた。そこから10年以上が経過しても未だ見渡す限りほぼそういう深みあるプロダクトを見ることが皆無に近いからしても真にに“大したもの”であると言ってよい。
で、この記事にあるコデカケというサービス?についてだが・・
“聴覚障害”というものをどう捉えているかということが非常に引っ掛かった。
その障害が“先天的”なものなのか、はたまた“後天的”なのかによって状況は全く異なるわけなのだが、それを最初期の検討に入れていたのかということだ。
これがそもそも後天的聴覚障害または“障害のない者”を対象としたサービスだという前提なら中途半端だが、まあ課金サービスとして今の社会なら考えそうなものだという風にしか思わないが、先天的聴覚障害が範疇に入ったことだというのなら“おいおい、大丈夫か?”と指摘したい。
例えば先天的視覚障害がある人たちは、末にあらゆる研究で取り上げられているから詳しくはそちらを検索して貰えば良いが、視覚を反響定位(エコーロケーション)で補完している。人によって補完の仕方に差があって、必ずしも同じ方法かどうかは別に実は使えない“視覚”を違うもので置き換えて、視覚が当たり前にあるものには想像を絶する能力を備えているのだ。
この世界でのヒュー・ハーはダニエル・キッシュとなるのだろう。
話を聴覚障害に戻し・・それがある場合についてもいろんな研究がなされているが、すでに「周辺視覚」と「動体視力」が優れていることがわかっている。
それをベースに“聴覚の問題”をカバーしているということだろう。
注)僕は聴覚障害が全くないのでどのくらいの補完がされているのかということや、どのくらい個人差があるのかなどは全くわかりません。
そこから想像すると、先天的な障害のある人たちにこの手のサービスが必要かが疑わしい。下手を打つとその素晴らしい能力の“妨げ”になる気さえするのです。
基本、人体が起こす自然、つまりありのままを前提とし、それが補完不可能なもので非常に不便なんて場合であれば、何かするのが良い気もするが・・盲目的に資本の暴力的リングに上げるのに躍起になったりするのは不幸である。
なんでも便利便利と連呼するのも、今の時代を象徴するやり方だがそれまた何か違和感がある。
もう少し“重い責任”を持って挑んでもらえないものかと個人的に思う今日この頃であります・・
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